syouwanowasuremono’s blog

懐かしい旧車・モノ・コトにまつわる雑感

忘れかけていた純情

〈昭和の忘れもの〉モノ・コト編㊴

【『小さな恋のものがたりみつはしちかこ著(立風書房、学研)】

「呪縛」や「亡霊」といった不穏なワードが続いたので、今回は目一杯メルヘンタッチな話題である。

小さな恋のものがたり(1~46集)』通称「ちい恋」は、1967年から半世紀に亘って刊行された、みつはしちかこ氏の4コマまんがだ。叙情まんがと謳い、高校生の小川チイコ(チッチ)と村上聡(サリー)の淡い恋物語が描かれた。

 毎年5~6月に新刊が発売されるのが恒例だったが、発売日には待ち焦がれたファンが大挙して書店に押し寄せた。メインの読者は圧倒的に若い女性だったと思われるが、存外、中高生の男子も周囲の目から隠れながら読んでいたようだ。

 かく言う自身も、1駅先の本屋でこっそり買って読んだクチだ。チッチの心の声(乙女心?)は、恋に免疫のない中高生の男子にとっては参考書、あるいはガイドブックのようなものだったかもしれない。

 意地っ張りで世を拗ねていた“誰かさん”は当然もてるはずもなかったが、例によって一方的に恋心を抱くのは熱病のようなものだった。当時憧れていたのは、理知的で美しい年上の女性だった。当然ながら自分とどうなるという対象ではなかったが、ある時「ちい恋」を愛読していると知って意外に思った。(大人の彼女が少女マンガを?)

 そのくせどうしても気になって、隣駅の本屋までコソコソ出掛けたというわけだ。作品は、少女の淡い恋心を中心に若き日に誰もが抱いていた素直な心情を、何気ない日常を交えてありのままに描いている。

 4コマまんがの体裁なので余計な描き込みはないのだが、だからこそ登場人物に感情移入ができたのかもしれない。また要所に間奏・BGM、あるいはテーマのように作者の詩画が添えられていて、読者は自身の感情を整理・確認することができた。

 これは欲目なのかもしれないが、年上の彼女が「ちい恋」を愛読していたのは、主人公たちの成長を見守るというよりも、自分の中にあるピュアな心を見失わないためだったのではないか。そう考えると、いっそう彼女に対する憧れが強まった。

 みつはし氏は未だ健在だが、「ちい恋」はひとまず46集で終了している。読者はおそらく最後まで並走したと思われるが、年齢的には還暦を過ぎた彼女たち、あるいは彼らたちの実人生の恋愛模様はどのようなものだったのか。興味は尽きないが、たとえ悲しい結末だったとしても、その時のお互いを愛おしく思える心の持ち主であってほしいと願うばかりだ。

 自分は否応なく年齢を重ねてきたが、物語の中の二人は永遠に高校生のままだ。その隔たりに一抹の寂しさを覚えるものの、ページを開くたびにもどかしくてちょっぴり切なくて、それでいて温かい気持ちになるのはなぜなのだろう。

 おそらくそこには、“野の花”のような目立たないけれど純粋で優しい温もりを持った作品(主人公)を描きたい、という作者の信念が貫かれているからだろう。

 時代で括るつもりはないが、確かに令和の世では「ちい恋」の世界観は成立しないかもしれない。SNSは言うに及ばず、パソコンや携帯電話も存在しなかった時代に立ち返ることはもはや不可能だ。わかっていながら、時代という体験を重ねてきた世代は無意識に自問してしまうのだ。

(あの頃と現在と、どちらが幸せなのだろう?)

 空虚な問いではあるが、賢明な読者は一様に答えるに違いない。

「“あの頃”を知っているからこそ、今も幸せなのだ」と。

 メルヘンチックという和製表現が相応しいかはともかく、連綿と描かれた物語世界と、対極とも言える現実の日々―――そのどちらも受け入れてバランスさせてきた事実こそが生きた証と言えるのだろう。それにしても、こんな感傷的な観念論を抵抗なく口にできるのは、老生故というよりも、叙情まんがの密やかな影響力のせいかもしれない。侮るべからず。

 ところで、あの女性(ひと)は今でも「ちい恋」のページを開くことがあるのだろうか?

 

草叢の亡霊

〈昭和の忘れもの〉クルマ編㉒

【スズキ マイティボーイ】

 時折通る川沿いの草叢(くさむら)に、「マイティボーイ」が放置(不法投棄?)されていた。1983年にスズキから発売された、軽の“ピックアップトラック”である。

 2代目「セルボ」のBピラー後方を切り取り、居住性に積載性を加えた異色のモデルだった。荷台はミニマムで中途半端の感は拭えなかったが、安価で遊び心を刺激された若者たちに「スズキのマー坊」の愛称で親しまれた。だが愛称の気安さとは裏腹な、このクルマにまつわる胸苦しい話を思い出してしまった。

*以下は、関係者の話を元にしたフィクションである

 その春、河崎聡子の部署に須々木君という青年が新入社員として配属されてきた。高校を卒業したばかりの初々しい、健康的で明るい性格の持ち主だった。物怖じしない積極性は仕事と向き合う姿勢として好ましく思え、周囲は期待を膨らませていた。

 ところが3ヶ月ほどすると、先輩や上司から不評の声が聞こえ始めた。不慣れな仕事に失敗は付きものだが、頑なに自分の過ちを認めようとしないというのだ。その不遜な態度は、いくら社会人1年生とはいえ独りよがりの自己主張としか映らなかった。

 それでも周囲の人間は辛抱強く見守り続け、丁寧な指導を心掛けていた。だが、須々木は己の正当性を主張するばかりで、たとえ相手が得意先でも自我を押し通す癖は抜けなかった。それは年が改まっても変わらず、さすがに同僚や上司も匙を投げかけていた。

 そんな折、会社の有志で週末スキーに行く話が持ち上がった。遊びやスポーツには一家言ある須々木はその場の空気を読むこともなく、自分も参加したいと申し出た。同僚たちは一様に不満顔だったが、仕事以外の交流を通して少しでも彼の態度が変化してくれればと考え、不承不承同意した。参加者は河崎聡子と同期の本多明子と山羽、1年先輩の戸与田、そして須々木に係長の末田を加えた計6名の予定だ。

 利便性を考えてクルマ2台で現地に向かうことになっていた。ところが前日になって、クルマを出すはずだった戸与田が体調不良で不参加となってしまった。スキー指導員の資格を持っていて、立場上も監督責任者ということになっていた末田は頭を抱えたが、思いがけず須々木が手を挙げた。

「じゃあ、俺がクルマ出しますよ」

 全員が新人の助け船に笑顔を見せた。そして胸の中で呟いていた。

(なんだ、協調性もあるじゃないか)

 そして当日。待ち合わせ場所に乗り付けた「マイティボーイ」を見て4人は驚いた。これまで見たこともない、小さくてユニークなスタイルだったからだ。結局、須々木のクルマには誰も同乗しなかった。目の前の奇抜な軽自動車に全員が拒否反応を示したからだ。尤も、当人は気にすることもなく、むしろ一人で気ままに運転できることを喜んだ。

 聡子が運転するクルマは4人乗車ということになったので、スキー道具は須々木のクルマに積むことにした。こんな時、“ピックアップトラック”の荷台は(天候に恵まれれば)最大の利便性を発揮する。

 とにもかくにも、2台のクルマは無事に上越の某スキー場の駐車場に辿り着いた。気温は低かったが、快晴で絶好のスキー日和だった。

 各自スキーウエアに着替え、ひとまずリフトで最初のゲレンデに向かった。初級者コースで末田が一通り滑走を確認し、各自の技量に合ったゲレンデを提案した。その際、須々木は「中級レベル」とされたのだが、これに納得がいかなかった彼は末田の忠告を無視し、上級者コースへのリフトに乗って行ってしまった。

 末田が慌てて追いかけ、上級者コースのスタート地点で重ねて忠告した。

「君のスキーは自己流で、このコースは危険だ。しばらく中級コースで練習した方がいい」

「大丈夫っす。これくらいの斜面は楽勝なんで」

 彼はそう言い残すと、末田の制止も聞かず滑り始めてしまった。そのコースは斜度はもちろん、狭くて要所にコブがあり、上級者でも気を抜けない難コースだった。コブをクリアした後にきっちりスキーをコントロールできないと、コース外に飛ばされてしまいかねない。

 そんな難コースにも拘わらず、須々木はほぼ直滑降で斜面を下っていったのだ。いや、それは滑るというよりほとんど“落下”だった。それを見た末田は背筋が凍った。あの滑走スピードでは、指導員資格を持つ自分でもコントロールできるかどうか。ともあれ、彼は須々木の後を追ってコースを滑り始めた。もちろんきっちりとターンを熟しながら。

 そして、コースの中程を過ぎた地点で、彼は恐ろしい光景を目にしたのだった。コース脇の吹きだまりの向こうにリフトの鉄柱が聳えていたが、その手前まで真っ直ぐにシュプールが延び、終着点に赤いペンキを撒き散らしたような雪山があり・・・その中に見覚えのあるスキーウエアが埋もれていたのだった。

 須々木は直滑降のスピードのまま、スキーをコントロールできずにリフトの支柱に激突したのだ。即死だった。

 ゲレンデパトロールや警察の事情聴取が終えた時には、辺りはすっかり闇に包まれていた。同行者の誰もが、ショックと疲労感で言葉を発する気力も無くしていた。しかし、この先にも地獄が待っていることに気付く者はなかった。誰が悪いわけでもないのに自責の念に苛まれ、今後はスキーを楽しむどころか、雪を見る度に一面を染めた真っ赤な血しぶきを思い出すだろうということに。

 新人の彼に虚栄心を捨てて末田の忠告を聞く謙虚さがあれば、それ以前に、日常的に先輩たちの指摘に耳を傾ける素直さがあれば、悲劇は起こらなかったかもしれない。

「自業自得じゃないか」

 故人に対してあまりに非情だが、社員の中にはそんな声もあったという。実際、この“事故”によって会社も謂われのない責めを受け、多くの人たちが迷惑を被った。責任者だった末田は別の部署に異動となり、聡子は暫くして会社を去った。

 以来、社員たちは誰一人「須々木」の名を口にすることはなかった。まるで最初から存在しなかったかのように。謙虚さを学ばなかった付けを、彼は19年という短い人生を終わらせることで払う結果となったのだ。

 当然ながらこんな話はしたくなかった。しかし、草叢に蹲る特異な車体はまるで亡霊のようで、思い出してくれと哀願されている気がしたのだ。やむなくこんな形で振り返ることになってしまったが、寝覚めが悪いことは否定できない。

 そもそもの諸悪の根源は不法投棄である。こう力説すると、さも公共心を振りかざしているように思われるかもしれないが、恥ずかしながら私的な忌避でしかない。切に願うのはただ一点。

「誰か、早急に“亡霊”を祓ってくれ!」

 



444(トリプルフォー)の呪縛

〈昭和の忘れもの〉バイク編㉕

 【ホンダ CB750K】

 CB750fourの後釜に、10年ぶりにフルモデルチェンジされたCB750Kが収まることになった。(愛車は新型のマイナーチェンジ版)

 エンジンは4サイクル4気筒で排気量も同じ750㏄だがDOHC(ダブル・オーバーヘッド・カムシャフト)化され、フレームも含めて機能・安全面共に刷新された。対して、スタイリングはオーソドックスで落ち着いた外観である。

 乗り替えに至るには多くの葛藤があった。お察しの通り、プロフィールネームの「銀タン750(ナナ・ゴー・ゼロ)」は手放したCB750fourへのオマージュである。尤も、それは年月を経て初めてその価値に気付いた結果で、己の浅薄さを戒める意味合いもあるのだ。

 750four入手の経緯は以前書いたが、以降、相棒として数多の経験と濃密な時間を共にした。だからこそ中途半端な向き合い方はしたくなかったので、バイク本体のライフサイクルの限界ならば潔く受け入れるつもりだった。その時は「エンドロール」(バイク編㉔)の心情そのままに、自身の2輪ライフそのものに終止符を打つ覚悟だったのだ。

 電装に対する不信、ミッションの不安、各部品の劣化―――それらを総合的に解決するには部品・アッセンブリーの全交換か、手っ取り早く新車を購入するしか途は無かった。しかし、すでに販売が終了していて新車の購入が適わない以上、これを機に2輪を卒業する決断をした・・・はずだった。

 当時、2輪メーカー各社は全盛期であり、小排気量から大排気量まで豊富なラインナップが続々と発売されていた。全般的にデザインは戦闘的になり、中でも目立ち始めたのが、いわゆる“レーサーレプリカ”と呼ばれるスポーツバイクだった。主力の中・大排気量車はフェアリングやカウリングを装着し、レーシングマシンそのものの派手なカラーリングが施されていた。

 街中には“レーサー”が溢れ、古いライダーの居場所は失われたように思えた。ある意味、それは“卒業”の格好な口実でもあった。

444(トリプルフォー)〈4サイクル・4気筒・4本マフラー〉のナナハンが出ればなぁ」

 などと殆ど実現性のない条件を吹聴し、それもまた言い訳の材料とするつもりだった。何より「4本マフラー」という条件は、排気効率や重量増の問題から設計段階で排除される最有力候補だった。ところが、そんな状況の中で4本マフラーのCB750Kが登場したのである。まさか前時代的なレイアウトのバイクが新しく発売されるはずがない、と高を括っていた自分が愚かだった。してやられた気がした。それは、過去に執着を抱いているオールドライダーの鼻先に“ニンジン”をぶら下げられたようなものだった。

 かくて、自分の言葉に責任を取る形でCB750Kを購入することになった。というのは、あまりに苦しい弁明だ。経済的理由でオーバーホールを断念したはずなのに、明らかに矛盾している。だから素直に謝罪し、告白しておく。“ナナハン”に対する女々しい未練だったと。

 メーカーの彼らは心得ていたのだろう。世の中に己の矜恃を旨とするファンがいることを。そして胸を張ってこう言うのだ。

「お客様のニーズに応えるのが我々の使命です」  

 そうした開発チームの熱意を称讃し、新開発のエンジンや安全性の向上を評価して購入を決めた人たちがいたのは間違いない。他方で、どこまでも偏質的な拘りで選択した人間もいるのだ。エンジニアの方たちには申し訳ないが、敢えて、そんなひねくれ者の負け惜しみの声も伝えておくことにする。

 革新的な機能・性能を求めていたのではない。444(トリプルフォー)の呪縛から逃れられなかっただけなのだ、と。

巨匠と”だるま”

〈昭和の忘れもの〉モノ・コト編㊳

開髙健とサントリーウイスキー・オールド

 開髙健は言わずと知れた文学界の巨匠である。ベトナム戦争時に特派員として従軍した体験を元にした『輝ける闇』『夏の闇』は、不朽の名作として名高い。(『花終る闇(未完)』を加えて「闇三部作」と呼ばれている)

 だが開髙の名前が広く知られるようになったのは、後年の釣りにまつわる紀行文の人気によるものが大きかったのではないか。純文学としての開髙作品は重厚で、テーマの奥深さが一部の読者には難解に映ることもあった。ともすれば、読む前に身構えてしまうような威圧感にも似た印象を持ってしまいがちである。

 しかし、釣行記は一転して溌剌とした昂揚感と冒険心に溢れ、読者を川や湖、そして海へと誘ってくれる。開髙の釣りへの情熱・探求心はもちろん、食や酒にまつわる機知に富んだ話は読者を飽きさせない。

*断るまでもないが、釣りに限らず洒脱なエッセイ集も多数出版されている。

 

 酒と言えば、周知のように開髙は「サントリーの前身である「壽屋」の宣伝部に籍を置き、後にいうコピーライターのような仕事をしていた。

 今やJapanese Whiskeyは世界的な評価を受け、驚くべき高値で取引されている銘柄も存在する。そんな現在の熱狂以前、70年代から80年代にかけて空前のウイスキーブームがあった。その牽引役が「トリス」「ホワイト」「レッド」「オールド」といったサントリー勢だった。中でも“だるま”の愛称で親しまれた「オールド」は、大衆からすればちょっぴり高級で、普段飲みできるようになることがサラリーマンの憧れだったりした。

 それが経済成長の波に乗って日常的に飲まれるようになり、やがて世界に進出するまでになったのだ。実際、80年代には単一ブランド(ウイスキー)で、年間販売数の世界記録を樹立した。当時、自室の飾り棚にもインテリア然と“だるま”のボトルが鎮座していたくらいだから、さもありなんと納得したものだ。

 オールドの人気には凄まじいものがあったが、秀逸なテレビCMの力も大きかった。起用された俳優らの知名度もあるが、「音楽」「コピー」「物語性」―――それらの総合芸術とも言える映像はCMの域を超え、短編映画の如き秀作が数多く創られた。気鋭のCMクリエーターたちによって、メディア広告が変革期を迎えていた時代でもあったのだ。

 言葉でウイスキー文化をもり立てていた開髙は、後に出演する側にもなった。並の文豪なら出演依頼を一蹴しただろうが、メディア畑出身である開髙は抵抗感を持たなかった。結果的にその風貌、言霊、食と酒との融合・・・それらによって「オールド」の”風格”といったイメージを醸成し、ひいては企業の、そしてウイスキー全般の地位を確立するに至った。

 その後、経済情勢や大衆の嗜好の変化によってウイスキーブームは一時下火になったが、時代を築いたイメージ戦略の手法は今でも業界の礎となっている。

 こうしてウイスキーの話をしながら、自身は殆ど下戸である。酒の味を語ることもできない。それでいながら巨匠の著書のページを開くと、わかるはずもない酒の味や各地の逸品料理の匂いが行間から立ち上ってきて、思わず喉が鳴ってしまうのだ。

 きな臭い世界情勢の中で「闇三部作」を読むことはあまりに気が重い。そこでせめて釣行記を初めとする軽妙な作品を手に、釣り上げた魚の感触や絶品料理の味を想像することで、束の間の平和気分を味わうことを許してもらいたい。

 そんな夢想のせいか、酒に弱いくせにグラスを傾けたくなった。当然、中身は琥珀色のウイスキーである。ロックか水割りか、はたまた・・・。

 小説だけでなく、広告・メディアの行き方も示唆していた慧眼の文士には畏敬しかないが、敢えて無礼を承知で胸の内で呟いてみる。

(巨匠、今宵はお付き合いください)

献杯!」

元号が改まった1989年の12月、昭和の終焉を見届けた巨匠は58歳で旅立った。

 

 

 

無事という空疎

〈昭和の忘れもの〉クルマ編㉑

【ファミリア 3ドア1600GT】

スタッドレスタイヤを組んだホイル

 災厄が続いた「ファミリア1500XGi」に見切りをつけ、7代目の「ファミリア1600GT」に買い替える決心をした。ロータリーは規格外として、1400から1500へと段階を踏み、今回ようやく1600㏄に到達した。何と謙虚なのだろうと自画自賛したいほどだ。

 7代目ファミリアはボディタイプが3種類、エンジンは2種類用意されていた。愛車に選んだ1600GTは、最もスポーティーな3ドアのホットハッチである。

 自分で言うのも何だが、このクルマは実に出来が良かった。サイズ感とパワーのバランスが絶妙で、且つ足回りがエンジンより勝っていたのでコーナリングも安心だった。さらにGT仕様のシートが絶品で、長距離の運転でも苦にならなかった。

 そういうわけで散々あちこちへ出掛けたのだが、不思議なことに劇的なエピソードの記憶がない。その大きな要因は、助手席に収まる特定の人物がいなかったせいだろう。良くも悪くも平穏な日々が流れて(流されて?)いたということか。

 数少ないトピックは、あるクルマ専門誌の「新型車レビュー」に採用されたことと、勢いでスタッドレスタイヤを購入してしまったことくらいだ。モノコト編ではスキーの話は過去になってしまったが、当時活躍したのがこの1600GTである。ただ、自発的というよりは友人に請われてというパターンが多かった。

 ある年のシーズン半ば。スキーを始めるきっかけとなった彼女にはすでに振られていたが、知り合いの“スキー女子”2人からトランスポーターとして声が掛かった。何の下心もなかったが、大枚をはたいて手に入れたスタッドレスタイヤは地元では宝の持ち腐れだったので、減価償却の観点から新潟方面への遠征を承諾したのだった。

 スキー最盛期の道路事情については以前触れたが、東京近郊から上越方面のスキー場に向かうには真夜中に出発しなければならなかった。その日も夜明け前に集合したのだが、生憎の雨模様だった。願いも虚しく降り出した雨は次第に激しくなり、予報では新潟方面も雨だという。せっかく予定を組んだのに残念だったが、雨中の滑走が悲惨だということはわかっていたので、スキー行はやむなく中止となった。

 女子たちは努めて「また次の機会に」などと慰め合っていたが、その落胆ぶりは見るに忍びないものだった。しかし、中止の決断は正解だった。夜のニュースで、新潟方面の大雪が報じられていたからだ。低気圧の発達によって当初の雨予報が雪に変わり、午後には猛吹雪になったという。ゲレンデは視界不良となり、高速道も一部閉鎖されたとのことだ。

 あのまま強行していたら、スキーはおろか帰宅も適わなかったに違いない。場合によっては遭難の可能性すらあったのだ。スキーを楽しむことはできなかったが、結果的に危険を回避できたのだからラッキーだったと言うべきなのだろう。

 表面上は起伏と映らなくても、振り返って初めてその意味や価値に気付くこともあるのだ。波乱に満ちた刺激的な日々も楽しそうだが、カーライフにおいては問題が起きないこと、すなわち無事であることはそれだけで幸運と呼んでいいのかもしれない。

 因みに、この1600GTは自分の手を離れるまで事故はもちろん、傷ひとつ付けることがなかった。これはある意味奇跡的である。ドラマチックな場面がなかったからといってそれが何だ。相対的に、平穏な日常の傍らに寄り添ってくれたクルマの存在自体が愛おしく思え、それだけで幸福感を味わうことができたのだ―――と鷹揚さを気取っても、なぜか負け惜しみの感が拭えない。波風の立たない日常がどこか空疎に思えてならないのは独善でしかないのだろうか。

 本音を言えば、「助手席は予約済なので乗せられないんだ」「ボディーの傷には理由があってね・・・」などと嘯きながら武勇伝を開陳してみたかった。それが今さらながらの妄想であり後悔でもあるのだ。                     

エンドロール

〈昭和の忘れもの〉バイク編㉔

 【CB750four part3】

 ようやく電気系統のトラブルから復調した頃だった。

 バイクの神(そんな物が存在するのか?)はとことん底意地が悪いらしく、小市民に次なる試練を与えた。1速から2速にギアチェンジする際、稀にギア抜けするという駆動系の不具合が発生したのだ。

 調べたところ変速機内のシフトフォークの変形、あるいは摩耗が原因らしい。早速販売店に持ち込んで修理・調整を依頼した。ところが整備後一ヶ月も経たずに同じ症状が現れたので、さすがにクレームを入れた。

 だが、店の対応は歯切れの悪いものだった。

「申し訳ないが、うちでは手に負えない。ホンダのSF(サービスファクトリー)に持ち込まないと」

 SFとは当時ホンダが全国の拠点に設置した、特殊工具・機械が完備されたホンダ車(2輪・4輪)専門の整備工場だ。したがって信頼度は絶大だが、技術料もそれなりに覚悟しなければならなかった。見積もりを依頼すると、我が愛車の場合はエンジン・ミッションを降ろして分解・整備・組み立てで十数万円かかるという。

 すでに電装関連で大金を支払った後だったので腰が引けた。そもそも、販売店できっちり修理できなかったせいなのに。どうにも納得がいかず、つい胸の内で悪態をついてしまった。(やっぱり中古は・・・)

 結局、しばらく検討するということで棚上げとなった。

 先延ばししたところで不具合が治まるわけでもなく、スタート直後のシフトアップのたびに神経質にならざるを得なかった。エンジンのピックアップが優れているのでギア抜けすると一気にエンジン音が高まり、周囲からは嫌悪の目を向けられる。マフラーを改造し、敢えて騒音を撒き散らすことに快感を覚えている暴走族と同一視されては堪らない。

 愛車のCB750fourは無改造だったが、実は“音”に関しては少しだけ申し訳なく思っている部分もあった。というのも当時の騒音規制が緩かったこともあり、CB750の排気音はけっこうな迫力だった。特に始動時は爆発音に近く、早朝の住宅街でエンジンをかけるのは気が引けた。 

 アイドリングにすれば気にならないレベルになったが、バイクとは無縁の人たちには騒音でしかなかったろう。幸い家族と“ご近所さん”の関係は良好だったので、辛うじて目を瞑ってくれていたのだと思う。

 始動に気を遣い、シフトアップに気を遣い・・・そのストレスは日々蓄積された。「雨の日は愛車が傷む」「真夏のヘルメットはサウナ状態の地獄」「真冬の厳しい寒さは骨身に染みる」・・・等々、いつからか乗らない理由を探している自分に気付いた。これには愕然とした。あれほど“バイク愛”を振りかざしていたくせに。

 酷い裏切りだと言われそうだが、決してCB750fourに対する愛情が薄れたのではない。マイナス要素が重なったせいで、対峙するのが苦痛になってしまったのだ。これは大好きな彼女に、ここは改めて欲しいと切望するのに似ている。他の部分が優秀すぎて、些細な欠点が気になってしまうというジレンマ。自分はそれをどこまで許容できるのか? 

 実は、この問い自体が残念な結末の前兆だという自覚はあった。かつて何度も経験した“別れ”の気配に他ならなかったからだ。

SL350は青春そのものだった」過去にそう書いたが、CB750fourもまた、人生の数ページを彩ってくれた忘れがたい存在だ。唯一、行動に理由や意味をタグ付けしてしまうという年相応の悪しき慣習のせいで、非日常性が薄められた事が悔やまれる。

 SL350の時は唐突に手放すことを決めた。決別ありきで、心の準備も手順も無視してしまった。いわば編集もされず、ラストシーンも割愛した映画のようなものだった。制作者であり主人公でもあったはずなのに、これほど不親切で無責任なことはないだろう。

 だから今度はきちんと物語を終わらせ、エンドロールも手を抜きたくなかった。登場人物(&車種)はもちろん、シチュエーションや流れていた曲、陰ながら手助けしてくれた人たち―――それらも可能な限り記録に留めたいと思った。且つ、観客としても“作品”を検証しながら心に刻み、最後のクレジットまで脳裏に焼き付ける事が責務なのだろう。

 たとえその余韻の拡がりと重さにたじろぎ、席を立つことができなくなったとしても。

 

雨を見たんだ

〈昭和の忘れもの〉モノ・コト編㊲

【CCR(クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル)】

 過日、記録映画『CREEDENCE CLEARWATER REVIVAL/TRAVELIN’ BAND』を観た。記録フィルムなので当たり前だが、スクリーンに映し出されていた4人のメンバー(ジョン・フォガティ、トム・フォガティ、ダグ・クリフォード、ステュ・クック)も背景も時代の空気そのままで、半世紀前の日々が蘇って涙が出そうになった。

 1972年10月のその日、一人のひねくれ者の高校生は朝から自室に籠っていた。

『CCR解散!』の報を耳にした瞬間、全身の力が抜けたような浮遊感に襲われ、気がつけば日が暮れるまで彼らの曲を大音量で流し続けていた。有りったけのLPとシングル盤を、次から次へとプレーヤーに乗せては針を落とす手順を繰り返した。まるで、その音が途切れたら自分の命が消えてしまうかのように。

 その2年前に解散した「ビートルズ」の偉業については語るまでもないが、その“絶対王者”に背を向けてCCRに傾倒したのは、単純に彼らの曲が自分の感性に合っていたからだ。そこに嘘はないが、ビートルズ至上主義を唱えていたのは洋楽好きだけでなく、ビジュアルを第一義と捉えている人間が少なからず存在することへの反発もあった。

 高校生の彼は、「主流・優勢といわれるモノには抵抗すべし」という何ら説得力のない信念に凝り固まっていた。もちろん、ただの天邪鬼でしかないことはわかっていた。しかし、そうやって抗い続けることしか彼にはできなかった。特筆すべき才能もなく、何処へ向かおうとしているのかさえわからず、今日を生きていく自信さえなかった彼には、否定形でしか外界と対峙する術がなかったのだ。 

 郷愁・回帰・夢想・自省―――CCRの曲を聴きながら、自分の中ではあらゆる思いが駆け巡っていた。過剰に反応する感性を制御できず、まして的確な言葉で他者に伝えることもできなかった愚か者は、拠り所としての楽曲に己の心情を託すしかなかった。

 CCRを「サザンロック」等の名でジャンル分けする向きもあるようだが、個人的にはどうでもいいと思っている。何より、J・フォガティのブルージーでパワフルな歌声は唯一無二である。彼自身は多彩な楽器を操ることができたが、自身の声こそが誰にも演奏できない“楽器”であり、シンプルな曲構成に複層的な魅力を与えていると言えるだろう。彼らの確かな演奏技術とジョンのヴォーカルの複合体、それがCCRサウンドである。

 代表曲の「雨を見たかい」は特に日本で大ヒットしたが、その歌詞については様々な解釈・隠喩がまことしやかに流布されていた。有名な話では、「晴れた日に降る雨」がベトナム戦争時に使用されたナパーム弾を象徴した“反戦”であるとの理由で、アメリカ国内で放送禁止になったこともあったという。

 J・フォガティ自身は反戦歌説を否定しているが、元々そうした詮索自体が無意味なことではなかったか。要は、聴衆は彼らの演奏を、ジョンの歌声を頭を空っぽにして全身で受け止めればいいのだ。理屈は要らない。

 素直にそう思えたのに・・・あらゆる事物に終わりがあるように、音楽性に優れたバンドも例外ではなかった。良くも悪くもJ・フォガティのワンマンバンドであったCCRは、ひとりの天才が率いるグループの常で、スタートした時点から崩壊へと向かう運命だった。

 前年にトム・フォガティが脱退し、残ったメンバー3人による日本公演(1972年2月・武道館)が行なわれた時、すでに内部崩壊はギリギリまで進行していた。一部では暗黙の了解だったかもしれないが、誰もがその話題に触れることを避けていた。

 しかし、運命の時はやってきた。CCRの実質的な活動は僅か4年ほどだったが、最終的に彼らは世界的なビッグバンドに上り詰めた。メンバーにとって、あるいはファンにとってそれまでの期間が長かったのか短かったのか、一概に語ることはできない。

 いずれにせよ彼らが解散してしまったという現実は、明日からの希望を失ったひねくれ者にとって十分過ぎる悲劇だった。一方で、J・フォガティが「雨を見たかい」の歌詞に込めた“真情”を読み解いていたファンは、己の理知を悔やみつつ呑み込むしかなかったのかもしれない。晴れた日の雨・・・すなわち、黄金期の直中だったバンドの終焉が近いことを予告していたのだと。

 ♬ 晴れた日にも雨は降るんだ

   君はそんな雨を見たかい? 

 あの頃そう問われ、未熟な自身に照らして思うことはあった。

 古いメモが残っていた。半世紀前のものだ。気恥ずかしいが、アンサーソング風の独白を敢えてそのまま記しておくことにする。

  ありふれた日々だけど

  挫折や悲しみだってあったよ

  それよりも突然の雨は最悪さ

  ずぶ濡れになるしかないから 

  晴れた空から降り注ぐ      

  そんな雨を僕は見たんだ