【ショートストーリー】
「昭和の忘れもの」 番外編
ペットボトルにお気に入りの“名水”を詰め、自分で挽いてブレンドしたコーヒー豆をプラスティックのフィルムケースにパックする。このフィルムケースというやつは実に便利で、クリップとか虫ピンといった小物の整理にはもちろん、少量の調味料・香辛料の入れ物としても重宝する。
愛車で出掛ける際には、こいつの密閉性というのが特に重要だ。何しろ愛車には屋根が無い。いや、ドアさえ無い。タイヤもふたつだ。そう、私の愛車というのはバイクなのだ。
その週の仕事を終えた帰り道、星がきれいに見えていると自然に足が速くなる。
夕食後、形ばかりの書斎コーナーに籠もって地図を拡げる。ここから私の「アローン・ミッドナイトラン」が始まる。自然に口元が緩んでしまう一時だ。
片道およそ100~150km。この辺りが無理のないところだ。ツーリングバッグに例のペットボトルとフィルムケース、キャンピング用のランタンと小型のバーナー、ポット、ドリッパー、愛用のマグカップといった一式を詰め込めば準備完了。その日の気分で決めた目的地に向けてスロットル・オンーーー。
深夜まで続く都会の喧騒を切り裂きつつ、次第に暗く、けれども軽くなっていく夜気を全身に受けては置き去りにしていく。あらゆる人工の音が薄れてゆき、自然の音だけが耳朶に届く。唯一の例外は、自分の腹の下に抱いている多気筒エンジンのメカニカルなハミングだ。
それは右手首の微妙な動きに敏感に反応し、ガードレールや山肌の擁壁に反射するエグゾーストノートと完璧なハーモニーを奏でる。それを全身で体感した瞬間、例えようのない恍惚感を覚える。同時に時間の感覚も曖昧になり、目的地まではあっという間だ。
湖の畔にバイクを停める。さすがに人気はない。月明かりを頼りに、バッグから例の一式を取り出してコーヒーの準備をする。
湯が沸くまでバーナーで暖を取りながら月を眺め、殆ど漆黒の山の稜線を追ってみる。すると、底なしの静寂の世界が、五感に雄弁に語りかけてくる。時折、背後でチンチンと愛車のマフラーが冷えていく音が存在を主張するが、あとは自分の息遣いが耳元で聞こえるほどだ。日常生活では決して味わうことのない、新鮮な体験だ。
そんな思いに身を委ねていると、沸騰しかけたポットが呟き始める。それを合図にバーナーから下ろし、豆をセットしたドリッパーに丁寧に湯を注ぐ。たちまち、鋭敏になっている嗅覚を何とも言えない芳香が刺激する。逸る気持ちをぐっと我慢し、さらにゆっくりと湯を注ぎ、マグカップが満たされるまでじっくりと待つ。
そうしてようやく至福の時が訪れる。その淹れたてのコーヒーを一口含んだ時の美味さ。これは感動ものだ。不思議なことに、同じ豆を同じ道具で淹れても、家では絶対に同じ香りや味にならない。
ゆっくりと時間をかけ、心ゆくまでコーヒーを味わいながら、何も考えずにただ吹く風や葉擦れの音に耳を澄ませる。
春先なら新芽の萌え出る匂いが鼻先を掠め、夏の夜なら虫の声と幾多の生き物の息づきが、絶えず夜気を震わせるのが伝わってくる。秋には落ち葉の乱舞が闇の中でもはっきりと見え、冬の木枯らしは心の中まで吹き抜けていく。
こうして自然の中の自分という存在が俯瞰できると、日常の些事が本当にちっぽけな、取るに足らないものに思われてくる。
やがてどこからか薄っすらと、紫とも灰色ともつかない仄かな色が天空に浸み出し、自然のホリゾントが背景を飾り始めるころ、すっかり冷え切ったエンジンに再び生命を吹き込む。
のんびりしたペースで、ゆっくりと山路を下る。時間の流れとともに、刻々と光と風の綾なす情景が変化する。空気の密度も匂いも、同じ瞬間を留めることはない。そうした総べてがリアルタイムで、自然と時間を共有しているという充足感が全身に拡がっていく。
その余韻をどこかに残しながら、早朝の、まだ前夜の張りつめた空気が街中に残っている時間に帰宅し、心地よい疲労感を味わいながらベッドに潜り込む・・・。
昼近くになって起き出し、何事もなかったように食卓に着く。そこには、いつものように新聞とコーヒーが置いてある。
「おとうさん、ずいぶん朝寝坊だね」
小学生になったばかりの息子が、少しばかり咎めるような視線を向けてくる。妻はその向こうで聞き流しながら洗い物をしている。
「ねえ。ぼく、遊園地に行きたい」
「遊園地か。よし、次の日曜日にお母さんと三人で行こう」
「やったぁ。約束だよ。寝坊しちゃだめだよ」
本当に嬉しそうな笑顔だ。そこには何の含みもない。
その笑顔を眺めながら、十年後、彼と一緒に朝焼けの中をバイクで疾走する様を思う時、私の顔はみっともないほど緩んでしまう。
照れ隠しにコーヒーを啜ると、それは少しだけ甘い、けれども奥深い“家庭の味”がした。
ーー昭和のある家族の朝の風景よりーー