「別れの朝は、晴れ」
【ショートストーリー】 番外編
1980年代初頭、ドライな文体で一部のファンに支持された作品群があった。今回は時代設定も含め、当時のそのテイストを模したフィクションである。
気怠くなる一歩手前の、微妙なテンポのバラードが流れていた。ボーカルの男声はメローで心地良く、美しいメロディーラインそのままに胸の奥にストレートに入り込んでくる。
貴子は助手席で目を細め、フロントガラス越しに緩いカーブを描いている道路を見つめていた。この季節に相応しい色と素材の、彼女にとって最も似合っている長さのスカートに、これもまた彼女の美しさを引き立てる明るい色のブラウスを合わせていた。一見さり気ない、それでいてその顔立ちと絶妙の調和を見せる着こなしは、秋山達彦が初めて彼女に会った時から変わらない。
国産のセダンは緩い勾配に差し掛かり、カーブは右へ左へと木立の中を縫っていく。
初夏の最も新緑が映えるウイークデーに、達彦は彼女を高原へのドライブ旅行に誘った。そこは二人で初めて一泊旅行した思い出の場所だった。
あれから同じ季節が二度ずつやってきて、そして過ぎ去った。二年前と同じ道を辿る車の中で、彼女は悲しみをじっとこらえていた。二人にとって、この旅行が最後になるのだ。
結婚を意識し始めてからの二年間、二人はお互いに愛し合い、彼女の両親にも認められ、ゴールインは秒読みと思われていた。しかし、三ヶ月前に貴子の父親が急死したことで事態が一変した。
前後して達彦の海外転勤が決まった。最低三年、長ければ五年は日本に帰れない。彼は彼女に一緒に来てほしいと申し入れたが、彼女の返事はノーだった。父親の急死で体調を崩してしまった母親を残していく事は、一人娘の貴子にはできなかったのだ。
もちろん彼女は三年でも五年でも待つと言ったが、達彦はそれを受け入れなかった。五年後には彼女は三十二になる。それまで遠くの地から彼女を束縛することはしたくなかった。彼女を自由にすることが自分にできる最良の方法だと思ったのだ。
そして二週間前に、最後の旅行を提案した。二人にとって思い出深い地を別れの場に選んだのは、達彦の考えだった。
「どうしても別れなければいけないの?」
「別れよう」
「二人の思い出の場所でなくてはいけない理由があるの?」
「大事なことだ。時間を巻き戻す事はできないけれど、同じ場所を巡る事で上書きができる。そうすれば、リセットできるだろう」
「そんな・・・悲しいわ」
「僕も決して楽しくはない。しかし、こうしなくてはいけないと思った」
「辛い思い出になってしまうわ」
「楽しい思い出を消すことができる。悲しい思い出は時間が消してくれる」
「楽しい思い出のままではいけないの?」
「自分が苦しむだけだ。貴子をいつまでも苦しめたくはない」
「もう愛していないわけではないのね?」
「もちろん。愛していなければこんな手間はかけない」
「だったら、どうして待たせてはくれないの?」
「きみがひとりになったら、自分の時間は自分の為に使って欲しいから」
「あなたを待つのは自分の時間ではないと?」
「そうだ。二度と還らない時間を、遠く離れた僕のために遣ってしまうというのは、僕には辛いんだ」
彼はステアリングを的確に操作しながら、自分に言い聞かせるように告げた。彼女は彼の横顔からふっと視線を逸らし、口を閉ざした。
整備された見通しの良い道路を、二人の乗ったシンプルなセダンはゆったりと走り続けた。緩やかなダウンヒルを駆け抜け、樹木のアーチを潜ると、行く手に青い水をたたえた湖が見えてきた。なだらかな堤に囲まれた小さな湖だ。
見下ろすようにいくつかのホテルが森の中に建っている。その前を掠めるように進むと湖畔のパーキングエリアだ。ウイークデーのせいか、停まっている車の数は少なかった。車を降り、湖の畔へ向かった。彼女は半歩遅れて彼に続く。湖面を渡る風は少しだけ涼やかだった。
「ここで写真を撮ったわね」
「きみはオフホワイトのワンピースを着ていた」
「あなたは薄いブルーのシャツだったわ」
畔の一画に小さな休憩所があった。丸太を組んだベンチに二人は並んで座った。
「コーヒーが欲しいところだ」
「買ってくるわ」
しばらくして彼女が缶コーヒーを手に戻ってきた。
「これしかなかったの」
言いながら、一つを彼に渡した。
「ありがとう」
二人同時にプルタブを引いて一口飲んだ。
「美味しい」
「ああ。風に吹かれて飲む缶コーヒーも悪くない」
二人の会話はいつもと変わらず、時折笑顔さえ見えた。ほどなくコーヒーを飲み終え、再び湖畔に沿って遊歩道を進む。少しだけ風が強まったようだ。見上げると、青空の中に灰色の雲が拡がりつつあった。
高原の天気は変わりやすい。車に戻った時には、空はすっかり雨雲に覆われていた。走り始めてすぐにフロントガラスに雨滴が落ち始め、たちまちボンネットの上で踊りだした。車内に流れるポップな女性ボーカルに、ルーフを叩く雨の音が重なった。黒く塗りつぶされたアスファルトの道路は、薄い水膜の上に無数の波紋を作り出し、それがたちまち別のそれに取って代わられることを際限なく繰り返している。
フロントガラスの上を忙しなくワイパーが動き、視界を失いかけるのを辛うじて防いでいた。彼はスピードをやや落としたものの、いつもと変わらず正確で滑らかな運転だった。彼女は彼の腕の中にいる時がそうであるように、彼の運転にはほとんど安らぎといってもいいほどの信頼感を抱いていた。だから、雨に煙った山道でも何の不安も覚えなかった。
遠景の山肌は早くも暮色の中だ。山間の道は二重の薄暮に溶け始めた。対向車のヘッドライトの仄白い光が左右に流れ、それをやり過ごすと、まもなく目的のホテルが見えてきた。絵に描いたような白い、西欧のリゾートのような建物の正面に車を着けると、ホテルの係が手際よく荷物を運んでくれた。
チェックインを済ませ、部屋に入った。特に広くはないが、清潔感のある明るい部屋だった。南向きの窓からは雨に煙った街並みが、滲んだ墨絵のように見える。
「この部屋もあの時と同じなのね」
「少し無理をしてこの部屋を予約しておいた」
「・・・本当なの?」
曖昧な問いだった。
少し間を置いて彼は答えた。
「きみを嫌いになったのではない、決して。僕としてはできることをしたいと思った」
「これができることなの?」
「きみを連れていけない以上、僕にできるのはこれだけだ」
「あなたがわたしを待たせることは?」
「それは僕にはできない」
「わたしは待ちたいわ」
「その気持ちは嬉しい。でも、僕にはきみを置いていくことはできないんだ。それができない以上、僕はこうしなくてはいけない」
「本当なのね・・・」
自答した時、電話のコール音が部屋に響いた。ディナーの案内だった。
着替えを済ませ、レストランに向かった。
テーブルに着くと、普段通りのトーンで会話が進んだ。
「今日の雨は想定外だったけど、明日は上がるだろう。抜けるような青空の下で別れるというのが理想的だ」
「できれば降り続いて欲しい。わたしには辛いわ、あの日の青空まで消してしまうなんて」
「貴子はそんな弱虫だったか?」
「そうよ。あなたの前ではいつだって・・・」
「二週間後に僕はニューヨークだ。そして貴子は東京に残る」
「そうね。行ってしまうのね、どうしても」
「僕が行くんじゃない、きみが残るんだ」
「同じことよ」
「いや、貴子は貴子自身を中心に考えるべきだ」
「あなたは強い人だわ。わたしにできることはないの?」
「一緒に来てくれ」
「・・・それはできないわ。ごめんなさい」
「と、これが結論なんだ。何をどう言っても結果は変わらない」
「ごめんなさい。結局は、わたしのわがままなのね」
「お母さんを大切に思うのは貴子の優しさだ。わがままじゃない」
「ありがとう」
「いいんだ、もう」
ディナーを済ませ、ふたりでバーに向かった。達彦がカクテルを一杯だけ飲もうと提案し、彼女は同意した。
お互いに“カクテル言葉”に思いを込め、相手のカクテルをオーダーした。彼女は彼に「ブラック・ベルベット」を、彼は彼女のために「エバー・グリーン」を。
二人はグラスを合わせ、乾杯した。
「貴子のために」
「あなたのために」
彼女は達彦との思い出を語り、彼も同じように貴子の素晴らしさを語った。
グラスに浮かんだミントの葉を弄びながら、ふと彼女は窓の外に目をやった。大きな透明のガラスの向こう側はすでに夜の帳が降り、街の明かりが点になって散っていた。
達彦は壁際のベッドでダウンライトの灯った天井を見つめていた。
ほどなく、シャワーを終えた貴子がバスタオルを身体に巻き付けてバスルームから出てきた。
「あなた・・・」
彼女は言葉を呑んで立ち尽くしていた。それから、ゆっくりとバスタオルに手を掛けた。タオルが静かに床に落ちた。ナイトテーブルのスタンドとダウンライトの仄かな明かりの中に浮かんだ彼女の裸身は、息を呑むほど美しかった。
「きれいだよ、貴子」
「でも、あなたは私から去っていくのね」
「違う。お互いに自分を生きるだけだ。どんな理由にせよ事態が変わらないのなら、引き摺ってはいけない」
「思い出を抱いたままではいけないの?」
「きみはきみ自身であって、秋山達彦を愛した貴子のままではいけない」
「そんな悲しいことはもう言わないで・・・」
彼女はベッドに歩み寄ると、涙を溢れさせる寸前の表情の中に微笑を浮かべ、その唇を相手のそれに重ねた。
翌朝は、前日の雨が嘘のような快晴だった。
朝食の後、ゆっくり身支度を整えてからチェックアウトした。これから高原の道路をのんびりとドライブしながら街に戻る。そこで総べては終わる・・・。
途中から貴子がステアリングを握った。しばらくペーパードライバーの時期があったが、達彦の勧めでドライブの時はいつも三分の一ほどは彼女が運転席に座るようになった。外見からは想像できない男性的な、メリハリのある巧みな運転―――それが彼の評だ。
「運転しているときの貴子は素敵だ」
「運転しているときだけ?」
「貴子の美しさがさらに引き締まって見える。見方によってはきつい印象を受けるかもしれないが、好ましい緊張感がある」
「そうなの?」
「隙のない、美しい表情だ」
「ありがとう。でも、もうそう言ってくれる人はいなくなるわ」
「そんなことはない。男なら誰でもその横顔に見とれるはずだ」
「でも、あなたはもう見とれてはくれない」
前方を見据えたまま、彼女は抑揚のはっきりした声で言った。
「今日が最後だ。でも、後悔はしない。貴子の総べては僕の中にはっきりと刻み込まれている。その声も表情も、肌の感触も」
「それを、たまには思い出してくれるのかしら?」
「いや、そうはしないだろう。貴子と過ごした時間は紛れもなく存在し、確実に僕はその時の素晴らしさを感じてきた。それだけだ。忘れてしまうとかそういうことではないんだ。わかってもらえるだろうか?」
「わかりたくはないわ。思い出してももらえないなんて、悲しすぎるもの」
言葉とは裏腹に、表情には翳りがなかった。
「僕がきみのことを、きみの知らないところで思い出しても何の意味もない」
「わたしはあなたのことを毎日思い出してしまうわ」
「いや、きっと忘れるよ。思い出そうとさえしなければ、それだけで総べてが元通りになるんだ」
「わたしの気持ちって、それだけのものなの?」
「思い出すこととそれは別だ。貴子のこれまでの気持ちは僕が一番良く知っている。それは消えることはない。けれども、僕はもうそれを思い返すことはしない。自分が吸収した総べては、意志とは無関係に絶対的に存在し続けるんだ。それでいい」
貴子の運転するセダンは新緑と溶け合うように曲がりくねった山道を、樹木の息吹を纏いつつ走り続けた。道路の左側は下草の茂った斜面で、右側の眼下にはたった今走ってきたばかりのカーブの連なりが見え隠れしていた。急勾配を登りつめて左へ大きく回り込むと、今度は反対側に灰色のベルトが見え始めた。
「わたしたちの時間もあと僅かね」
「そうだ。二年前のドライブコースもあと少しだ」
「もう終わりにしたいわ。ほんのひとかけらでも楽しい思い出のまま残しておきたい」
「いや、最後までやろう。それがこの旅行の目的なのだから」
達彦は宥めるように言った。
「あなたはひどい人だわ」
それを言葉通りの意味には相手が取らないことはわかっていた。そして、彼の一見冷たい言葉が、彼女の心の整理の邪魔をしないためだということも。この期に及んで相手の気持ちを理解していることが無性に切ない。けれども彼女はそれを口にはしなかった。
達彦がカーステレオに新しいカセットを入れた。懐かしい曲が流れ始めた。もう十年近く前に流行したポップスだった。一曲目が終わると、同じ年に流行った別の曲が流れた。このテープは、彼がお気に入りだった曲を選曲して編集したものだ。二人で聴いた曲も含め、当時のヒット曲が次々とスピーカーから流れた。
「あなた、演出家としては失格ね」
「どうして?」
「あまりにも平凡すぎるわ」
「そうだろうか。でも、今はこのテープを聴く気分だ」
「それには私に対する未練も少しは含まれているのかしら?」
彼女の台詞はひどく真面目だった。
「無いと言えば嘘になる」
「嬉しいわ。この二日間で初めてだもの、あなたがそんな風に言ってくれたのは」
彼はカセットを一旦止め、真顔で言った。
「この瞬間、隣にいる女性のことを僕は愛している。これは事実だ」
「こんな時に辛い言葉だわ。あと僅かで別れる男女の台詞としては」
前方に緑の木々を背景にした、落ち着いた造りのコーヒーハウスが見えてきた。次第に減速しつつ、細かな砂利の敷き詰められたスペースにセダンを停めた。
見覚えのある木製のドアを開くと、オーク材のカウンターが奥に伸び、左側のフロアに同じ材質のテーブルが十分なスペースを取って並んでいる。二年前と変わっていない。彼は以前と同じ窓際の席に着き、彼女もそれに従った。
彼はモカを、彼女はアイスココアを注文した。二人の他に客はなかった。スタンダードなジャズのストリングスが店内に流れている。木漏れ日が出窓に飾られた小さな鉢植えに注いでいた。
運ばれてきた飲み物を、二人は黙って飲んだ。達彦はタバコのパッケージに手を伸ばし、一本抜き出した。貴子は横にあったライターを自然に手に取り、火を点けた。いつだったか、ふらっと立ち寄ったショップで見つけ、彼女が彼にプレゼントしたものだった。
「こうしてあなたのタバコに火を点けるのも、今日が最後なのね」
そう言いながら、銀色のライターに刻まれた「T・A」というイニシャルをそっと指でなぞった。
コーヒーハウスを出ると、僅かに陽が傾き始めていた。
彼女は運転席に乗り込んだが、彼は助手席のドアを開けなかった。
「僕はあれで行くことにする」
少し先のバス停に顔を向けた。
「東京まで一緒ではないのね」
「貴子のリクエストに応えたつもりだ。この先は割愛しよう」
「もう手遅れだわ。せめて東京まで一緒に帰りたい」
「いや。バスで駅まで行って、僕は電車で帰る。きみはこの車を友人の所へ届けてほしい」
コーヒーハウスで彼は一枚のメモを彼女に渡し、このセダンを東京の友人の所へ届けてくれるように頼んだ。まだ新しい車だが、向こうへ持っていくわけにもいかないので友人に譲る約束をした。ただ、都合が合わず、直接持って行けないので彼女に託す事にしたのだ。その友人の住所と電話番号、それに幹線道路からの地図がそのメモには書いてあった。
運転席のドアを挟んで、二人は黙って視線を合わせた。
程なく路線バスの姿が小さく見えてきた。
「行くのね」
「元気で」
彼は小さく手を振り、バス停へと歩いた。いつもと同じ歩調で、彼女を振り返りはしなかった。彼女はその後ろ姿をずっと見つめていた。彼に寄り添うように、バスが滑り込んだ。
不意にフロントガラスに雨滴が落ちて、彼の姿が水膜の向こうに滲んだように思った。彼女は無意識にキーを捻り、ワイパーのスイッチを入れた。けれどもガラスの滲みは消えなかった。もう一度ゆっくりとワイパーが往復すると、彼の姿はバスの中に消えていた。
それを見届けると彼女はワイパーを止め、ステアリングに顔を埋めた。微かに背中が震えているように見えたが、それは僅かな時間で、すぐにゆっくりと顔を上げた。視線の先に、カーステレオから覗いているカセットテープがあった。彼女は何の気なしにそれを押し込んだ。
スピーカーからキャロル・キングの「君の友だち」が静かに流れ始めた。
♬君には友達がいるんだよ
君はその名前を呼ぶだけでいいんだ
僕は必ず君の傍にいるんだから
(キャロル・キング「君の友だち」より 意訳)
「やっぱりあなたは最低だわ」
微かに笑みを浮かべてそう呟くと、彼女はシートに上体を預けて目を閉じた。
この曲が終わるまで、こうしていようと思った。
(了)