syouwanowasuremono’s blog

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「旅の途上」

【ファミリアAP1400 ツーリングカスタム part2】クルマ編⑩

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 さて、ようやく北海道の地を踏んだところから、フォーカスはクルマに移る。

 旅の相棒は「ファミリアAP1400ツーリングカスタム」(以後ファミリアTC)である。まだ付き合い始めて日が浅いが、この旅行で一気に距離を縮めたいと思っていた。ロータリークーペとは違い、ガソリンの残量に神経質にならなくて済むのが利点だが、北海道の広大さを散々吹き込まれていたので、まずはガソリン補給をすることにした。

 最初に目に止まったガソリンスタンドに入り、給油している間に身体を伸ばそうと車外に出て目を疑った。黒い車体が、まるで乳牛の背中のような黒白の斑模様になっていたのだ。思い返すと連絡船の甲板は雨晒しで、荒天のために波しぶきもかかり放題だった。なまじ雨が弱かったので、波しぶきが強風で乾いて白く塩の模様を浮かび上がらせたというわけだ。

 いくら北海道でも、この“ホルスタイン柄”で公道を走るのは憚られる。ガソリン代を払ってから、片隅の洗車場で白いブチ模様を丹念に洗い流した。やれやれと胸をなで下ろし、道東最初の目的地・大沼を目指す。

 翌日からは襟裳岬、阿寒湖、摩周湖を経て知床へ。さらに層雲峡から札幌というのが予定のコースだった。休暇は1週間。出発は前日の夜だったが、復路にほぼ1日かかるので、道内では6泊6日(?)。ドライバーが二人だからこその強行軍である。

 実は、ここまで書き進めて後悔している。「北海道道中記」として構想していたのだが、結構な紙数になるのは避けられない。さすがにその長広舌に付き合わせるのは気が引ける。したがって細切れにすると興が削がれてしまうジレンマはあるが、やむなく今回は(クルマに関わる)終盤のエピソードの一部をダイジェストで記すこととした。

「すみません。シャッター押してもらえませんか?」

 層雲峡で女性二人連れに写真撮影を頼まれた。写真に凝っていたので、旅先ではいつも1眼レフカメラを持ち歩いていた。そのせいで、観光地ではかなりの確率でシャッター係を頼まれる。この人なら撮影を任せても大丈夫だろう、そんな心理が働くようだ。それは構わないのだが、その手の観光客から渡されるのはたいていコンパクトカメラで、逆に勝手がわからないことが多い。尤もほとんどの場合オートなので、構図と光線だけ気をつければ問題の無い写真が撮れる。ただ、当人にとっては再び訪れることのない場所の可能性もあるので、責任は重大だ。現在のようにスマホならセルフも自在だし、その場で確認できるので気楽だが、フィルムカメラではそういうわけにはいかなかった。だからこそお決まりだったのだ、「もう1枚撮りま~す」。

 いつものパターンで終わるはずだったのだが、思いがけずAが二人を呼び止めた。

「これからどこへ行くの?」

 驚いた。生真面目なAが何の衒いも無く女性に声を掛けたのだ。彼にしてみれば、野郎同士のドライブに飽きていただけで、ごく自然な挨拶だったのだろう。特に下心があったわけではないのだ。

 聞くと地元は青森で、北海道の各地を毎年のように訪ねているという。海峡を越えれば北海道―――首都圏からの旅行者にしてみれば羨ましい限りだ。結局、旅は道連れということで旭川までクルマで送ることになった。幸いなことに、4人分の荷物を積んでも車内には余裕があり、快適なドライブだった。なるほど、これがこいつ(ファミリアTC)の真骨頂というわけだ。

 旭川駅前で彼女たちと別れ、自分たちは美瑛に向かうつもりだった。ところが、走り始めてすぐに時間的に厳しいことがわかり、あっさり断念した。この辺の“いい加減さ”が我々の取り柄だ。潔く方向転換し、高速道で札幌へ向かった。途中の単調な道路を、野郎同士で馬鹿話をしながらやり過ごして。

 札幌に着き、駐車場にクルマを停めてお決まりの時計台を探していると、見覚えのある二人連れが前を歩いていた。何と、旭川駅で降ろした彼女たちだった。電車の時間に空きがあったので、近くの店で土産物を物色していたという。あのまま美瑛に向かっていたら、我々もこの時間にこの場所にはいなかった。この偶然の再会に互いに甚く感激してしまい、近くの喫茶店であれこれ語り合ううちに、あっという間に時間が過ぎた。

 やがて、彼女たちの電車の時間が迫ったので腰を上げることにした。

 ここで再び別れることになったが、今度は旧知の仲のように感情が高ぶっていた。旅先でありがちな昂揚感によるのだろうが、まだそんな“青い”部分が残っていることが気恥ずかしくもあり、嬉しくもあった。

 目的の時計台は噂通りの地味なもので、覚悟はしていたものの肩透かしの感は否めなかった。それから市内を一通り散策して、帰路に着くことにした。

 復路は学習の成果を発揮し、東日本フェリーの函館―野辺地航路を選んだ。天候に恵まれたので船酔いも免れ、愛車が潮風に晒されることもなく、無事に本州に辿り着いた。安堵のためか、この時、ふと数年前に孤軍奮闘した苦い思い出が脳裏を掠めた。しかし、今回は燃費の良い愛車と気心の知れた友がいる。まだ長い帰り道が待っているが、6日間の出来事を振り返りながら走れば苦にもならないだろう。

 この旅は間もなく終えるが、“人生という旅”とまでは言わないけれど、我がカーライフはまだ道半ば、いや第1コーナーを過ぎたばかりだ。

 ♢追記♢

青函連絡船は1988年(昭和63年)青函トンネルの完成により廃止

*函館⇔野辺地航路は1994年に休止

*「東日本フェリー」は2005年に法人解散