syouwanowasuremono’s blog

懐かしい旧車・モノ・コトにまつわる雑感

過ぎたるは・・・

〈昭和の忘れもの〉モノ・コト編㉞

助六寿司(稲荷弁当・海苔巻き弁当)】

 ソメイヨシノの花芽が日毎に膨らんでいる。

 今年は晴れて花見の宴の規制が解除されるという。青空の下、家族や気の置けない仲間たちの笑顔の中心には、バラエティーに富んだ料理が並ぶことだろう。

 だが、自分の中では宴の食というと昔ながらの折り詰めの海苔巻きとお稲荷さん、所謂「助六寿司」が浮かんでしまう。

 歌舞伎が由来とされる助六寿司は、いわば江戸の粋と洒落の産物と言えるだろう。なので、家の食卓で「助六っ!」と見得を切られても正直ピンとこない。実際、当たり前のように「海苔巻き弁当」とか「稲荷弁当」と呼んでいた。定番でありながら、どちらが主役でも大勢に影響がないというちょっぴり切ない扱いだったのだ。だが、個人的には「お稲荷さん」の印象ばかりが強烈に残っている。実は、ある理由で稲荷寿司が今でも大の苦手なのである。

 以前、叔父が手広く商売をやっていたという話をしたが、飲食関連で寿司屋も経営していた。もちろん“廻らない”寿司屋である。

 店はそれなりに繁盛していたが、定期的な収入の一環として仕出しの注文も積極的に受けていた。冠婚葬祭はもちろん町内会の行事、さらに当時は団体旅行や会社の運動会などが頻繁に行われていて、行楽向けの仕出し料理や弁当の需要は最盛期だった。

 単純に考えれば、一定の売上が確保できるのは経営上好ましい。ただし弁当が20~30個ならば何の問題も無いが100個以上、時には500個という大量注文になると話が変わってくる。個人経営の規模では臨機応変に対応するのは簡単ではない。

 先の助六寿司タイプの弁当でも干瓢巻きが1000本、稲荷寿司は2000個必要だ。もちろん、総べて手作業である。且つ、食品安全上できるだけ提供時間までを短くする必要があったので、仕込みは深夜に行わざるを得なかった。

 熟練の職人が二人がかりでも、巻き寿司だけで4時間かかる。そこで当日は、助っ人として賄いの女性や家族が総動員される。その流れで、自身も中学時代にアルバイトとして度々駆り出された。

 職人ふたりは板場でひたすら海苔とシャリ、そして干瓢と格闘する。女性陣は仕込みの終えた油揚げに酢飯を手早く詰めていく。どちらも技術と根気の要る作業である。

 次に巻き終えた干瓢の細巻きを4等分に切り分ける。職人のリズミカルな包丁さばきは鮮やかで、見飽きることがない。一方、女性陣の奮闘により何枚もの大皿にお稲荷さんの山が築かれ、作業場には醤油とみりんで炊き上げた油揚げの匂いが満ちていた。

 ここからが出番だ。座敷いっぱいに置いたテーブルに経木の折箱を並べ、稲荷寿司と海苔巻きを詰めていく。巻き物は2本分、稲荷は4個。最後にバランとガリを添える。詰め終えたら蓋を乗せて包装するのだが、これがまた厄介だった。包装紙で丁寧に包んだ後、紙紐で十字結びをしなければならなかったからだ。今なら輪ゴムで済ませるところだが、店の拘りだったのだ。

 ここでも女性たちの見事な手際が光る。流れるような所作できっちりと包装され、次々と寿司折の山ができていく。そうしてようやく500個の弁当が包み終わる頃、窓の外はすっかり明るくなっているのだった。

 こんなことを繰り返すうちに、その油揚げの匂いが鼻につくようになった。初めのうちこそ醤油とみりんの匂いに食欲をくすぐられたが、毎回のことでさすがにその数に圧倒され、終いには匂いを嗅いだだけで胃が拒絶反応を示すようになってしまった。

 想像してほしい。1000本の海苔巻きを従え、2000個の稲荷寿司がピラミッドのごとく目の前に積み上がった様を。

『何事も過ぎたるは及ばざるが如し』??

 というわけで実物は見るのも嫌なくせに、なぜか季節が春めくと条件反射のように稲荷寿司の映像が脳裏に浮かんでしまうのだ。それは彩りの鮮やかな太巻きとペアでもなく、ましてやプラスチックのパックなどではない。経木の折箱に詰められた、由緒正しい「稲荷弁当」なのである。