syouwanowasuremono’s blog

懐かしい旧車・モノ・コトにまつわる雑感

駆け抜けた伝説

〈昭和の忘れもの〉バイク番外編

【『がむしゃら1500キロ』浮谷東次郎(ちくま文庫)】

 谷東次郎という名前をご存じの方はよほどのカーレース通か、年季の入ったバイクファンに違いない。彼は1942年(昭和17)千葉県市川市に生まれ、1965年に鈴鹿サーキットで練習走行中の事故でこの世を去った。23歳の誕生日の1ヶ月後のことだった。

 クルマ絡みで早世というと『ジェームス・ディーン』(享年24)、『赤木圭一朗』(享年21)という日米の銀幕スターが思い浮かぶ。彼らは華やかな舞台で脚光を浴びていたこともあり、早過ぎた旅立ちはセンセーショナルに報じられ、現在でも多くの熱烈なファンによって語り継がれている。

 一方、浮谷を語るとき、「夭折の天才レーサー」という冠がついて回るが、彼がレーサー(4輪)として活動したのは僅か1年半ほどだった。その短い間に輝かしい戦績を挙げた彼の才能は周囲が認めていたが、浮谷の名が未だに忘れ去られないのは、後に広く知られる彼の生き方自体にあるのだろう。

 彼の父親は成功した事業家で、教育に関しても型破りだった。そのおかげ(?)で東次郎は7歳でオートバイや自動車の運転を覚え、14歳で2輪免許(第1種原付)を取得した(当時、原付はこの年齢で取得できた)。そして翌年、50㏄のバイク(独:クライドラー)で市川から大阪までの往復1500キロの“冒険旅行”を敢行したのだ。

 たとえ原付でも、千葉と大阪の往復くらい日にちをかければ誰でもできそうじゃないか、と思われるかもしれない。だが当時の道路事情は想像以上に劣悪で、大都市の一部を除くと砂利道や未舗装のデコボコ道が大半だった。それに何処にでもガソリンスタンドやバイク屋があるわけでもなく、山道で故障でもしたら自分で修理しなければならなかった。そうした危険や不安を15歳の少年が一身に背負うことは、冒険と言って差し支えないだろう。

 この時の記録(手記)が収められているのが本書『がむしゃら1500キロ』である。(当初は私家版として200部印刷され、のちに書籍化〈1972年〉された。ただし文庫版発行は1990年、つまり、写真は昭和のモノではないことをご容赦頂きたい)

 本書を挙げたのは、あくまでも“バイク少年”の純粋な好奇心と冒険心にフォーカスしてのことである。ここには15歳の少年の忖度も衒いもない真っ新な心情が、言葉を飾ることなく綴られている。尤も、それを自己を貫く強い信念の持ち主として惹かれるか不遜だと嫌悪するか、評価は分かれるかもしれない。

 いずれにしても絶景やグルメとは無縁の、当時は無謀でしかなかった“旅”を成し遂げた意味は大きい。なぜなら、十数年の隔たりのある我々の世代では決して成し得ない、追体験の叶わないものだったからだ。

 同じ行程に挑んだとしても道路事情は改善され、バイクの性能も雲泥の差とあっては同列に語ることは無意味だ。決定的なのは、免許制度の改定により15歳では公道を走れないことだ。たった1年、誕生日によっては1日の違いで中学生と高校生の境界ともなる15歳と16歳それぞれの世界は、実際には時間以上に異なって見えることだろう。

 当然ながら、この一篇に収められた記述だけで浮谷東次郎という人物を語ることには無理がある。ただ、彼の信念は生涯一貫していた。思い立ったこと、信じたことは躊躇せずに実行するのだ、と。

 彼は22年と少ししか生きなかったが、その密度は同世代の誰よりも濃いものだった。直情径行と揶揄されることもあったが、常に全力で目標に挑む姿勢はそのままレーサーとしてのスタイルだった。周囲からは生き急いでいるように見えた(実際にそうなってしまった)が、本人にしてみれば後続を振り返る一瞬も惜しかったのだろう。

 自分が思春期にこの本を手にしていたら、バイクライフのスタートは違う形になっていたのだろうか。一つ言えるのは、周回遅れの我々が必死に先行集団を追ったとしても、彼らの後塵さえ見えなかっただろうという確信だ。そこには、時代という足枷や障壁に否応なくコース変更を強いられたに違いないという無力感も含んでいる。

 永遠に追いつけない背中、目眩く光跡の残像。決して触れることのできない歯痒さ故に、嫉妬とも羨望ともつかない思いに翻弄され続ける―――それこそが伝説たる所以なのだろう。

人生に助走期間なんてない。あるのはいつでもいきなり本番の走りだけだ

 ――東次郎語録より――

*興味を持った方は本書を含め、『オートバイと初恋と』『俺様の宝石さ』の3部作を一読されたい。