syouwanowasuremono’s blog

懐かしい旧車・モノ・コトにまつわる雑感

後方視界良好

〈昭和の忘れもの〉クルマ番外編

【ドアミラー黎明期の後付けミラー】

 現在では当たり前のドアミラーだが、日産「パルサー・エクサ」(1983)が登場するまで、国産車のサイドミラーはフロントフェンダー上にあった。

 普通免許が取得できる年齢になり、一部の外国車に装着されていたドアミラーを間近で目にした時、無条件にかっこいいと思ったものだ。同じ思いを抱いた若いカーマニアの声を聞きつけたのか、マニアックなカーショップでは汎用ドアミラー(後付けミラー)が売られていた。大人のユーザーは見向きもしなかったが、金はないけれど何とか自分好みにカスタムしたいと願っていたクルマ好きの間では一時期流行った。

 この初期のミラーは、ドアフレームを”コの字”型の金具で挟んでボルト止めするという単純な作りで、旧車にありがちだった四角い断面のドア枠にのみ取付け可能な代物だった。しかも見栄えやボディーとの干渉など考慮されておらず、ウェザーストリップの性能頼みで、雨の日には隙間から雨水が車内に侵入することも珍しくなかった。

 それでも誰も文句を言わず、自己責任と割り切っていた。なぜなら、当時はまだドアミラーそのものが認可されていなかったからだ。すなわち、フェンダーミラーを取外してドアミラーを装着した時点で整備不良車両として取り締まりの対象とされたのだ。

 それでも誘惑に勝てず、粗悪な後付けドアミラーに換装する人間は少なからずいたのだ(かく言う自分もその一人だった)。クルマ(ウェザーストリップ&ボディー)へのダメージや整備不良の反則金は総べて自己責任であり、その対価は『俺の愛車は他人とは違うんだぜ』という自己満足だけだったにもかかわらず。

 2台目となった愛車は1.4Lの大衆車とはいえ、新車だった。この時点でもまだドアミラーは認可されておらず、相変わらずフェンダーには2本の“角”が生えていた。前車でドアミラーの見易さを体験してしまったので、この逆行は耐えられなかった。

 しかし、ドア枠の断面形状が複雑化していたので前車からのミラー移設は適わなかった。そこでショップを巡り、“BMW御用達”との触れ込みのミラーを見つけた。鏡面にブルーの防眩加工が施され、見栄えも気に入ったので高額だったが購入を決めた。だが、価格以上に大きな問題があった。このミラーはドアに専用のアンカー(金属製のブロック)を固定してそこにミラー本体を被せるという構造で、ドアパネルにアンカーをビス止めする必要があるという。

 新車購入から僅か1週間。車体のどこにも掠り傷一つないのに、ドアの外板にドリルで穴をあけるというのだ。確かに装着後の見栄えは美しく、後付け感はほとんどない。とはいえ、さすがに悩んだ。前車に取付けた汎用ミラーは、金具のボルトを緩めれば取外しが可能だった。ドア枠に多少の痕跡が残っても、何とか修復可能な範囲といえた。しかし、ドアパネルに穴をあけるとなると大事(おおごと)だ。人間でいえば、擦り傷と刺し傷くらいの差だ。傷痕は比較にならない。

 それでも、決断した。

「取付けお願いします」

 ただし、ドライバー側だけだった。多分に懐具合の問題もあったが、実は前車でも助手席側は換装を断念した経緯があった。その汎用ミラーは左右どちらのドアにも流用できたので、試しに助手席側に取付けて走ってみて良くわかった。フェンダーミラーは僅かな視線移動で左右を確認できるが、ドアミラーはそうはいかない。ドライバー側はミラーが近づくので視認性が高まるが、助手席側はある程度首を振らないと確認できない。この時、僅か0.5~1秒とはいえ前方から視線を外すことになり、その恐怖感はかなりのものだった。

 この件がトラウマとなり、慣れの問題だと言い聞かせてはみたものの、ひとまず今はやめておこう。と相成った。見た目に拘ってミラーの換装を決めたのに、左右非対称で中途半端という無様な結果を受け入れてしまった。これは竜頭蛇尾とでもいうのだろうか。

 新車のボディーにドリルで穴をあけるという“蛮行”を許した精神状態、決断力はどこから来たのだろう。美学の変遷の要因は何だったのか―――そんな問いかけに行き着く文脈になってしまったが、誤りに気付いた。

 後悔や反省を綴りたかったのではないのだ。片側だけだったけれど、ドアミラーに換装した直後のファーストインプレッションの鮮烈、思わず漏らした一言。純粋にそれだけを記したかったのだ。

「後方視界良好!」

 

約束の拍手

〈昭和の忘れもの〉モノ・コト編㊽

【オリベッティー バレンタイン(タイプライター)】

 

 英語と聞いただけで腰が引けてしまう自分にとって、所謂バイリンガルという人たちは心から尊敬する対象だ。

 殊にワープロの登場など予想もできなかった頃は、英語に堪能な人間を二重に羨ましく思っていた。すなわち英語を操ることができ、しかも(活字で)記述する手段として英文タイプライターが存在したからだ。悪筆がコンプレックスだった自分からすれば、まさに夢の機械だった。

 英文は、アルファベット26文字といくつかの記号さえあれば文章の記述が可能だ。そのためタイプライターの発想は古く、実に世紀を跨いで進歩し続けた。中でも1969年にオリベッティー社(伊)が発売した赤いボディーの『バレンタイン』は、持ち運びできるお洒落なタイプライターとして人気となった。“ポータブル”を象徴する「赤いバケツ」のキャッチコピーで好評を博したデザインは、エットーレ・ソットサスによるもので、ニューヨーク近代美術館(MoMA)の永久収蔵品となっている。

 一方で、漢字を有する日本語はその膨大な文字数がネックとなり、当初はカナタイプがせいぜいだった。後に和文(邦文)タイプライターも登場したが、要は活版印刷の簡易版というべきもので、バケット(活字を収めた箱)から1字ずつピックアップして印字しなければならなかった。しかも持ち運びは不可能で、活躍の場は主に役所関連だったと聞く。

 昭和の後半、比較的小型の『パンライター』という商品が存在した記憶があるが、それも高額で活字数にも制限があった。どちらにせよ本来なら自分には縁のないはずだったが、唐突に後輩の女子に尋ねられた。

「事務機のお店に知り合いがいるとか。タイプライターも扱っていますか?」

 彼女はその春大学生になったばかりの、英文科の1年生だった。どこで聞きつけたのか、人脈とは縁遠い自分だが、たまたまその方面に伝手があったのだ。受講で必要だが、高額なので少しでも安く購入できる術はないかと、彼女なりに手を尽くしていたようだ。英文科と聞いただけで身構えてしまっていたが、頼られて悪い気はしない。しかも、出資元は親御さんだとしても、その負担を僅かでも減らせればと気遣う辺りは健気で、経済観念も含めて好感が持てた。

 そんなわけで、都内にあるその店まで付き合うことになった。懇意にしている店長に事情を話すと、特別に“社員割引”で販売してくれるという。

 数機種の説明に真剣に耳を傾けること1時間余り。彼女が選んだのはオリベッティー社の『バレンタイン』だった。失礼ながら、本人とは関係なく、その赤いタイプライターを持ち歩く姿は知的でかっこいいと想像できた。持ち運べるとはいえ現代の感覚ではそれなりの大きさで、“お荷物”の感は拭えないが、当時はお洒落で目立つアイテムだった。

 後日、彼女からお礼の手紙を貰ったのだが、それが便箋に手書きしたありきたりのものだったので寂しい気がした。誤解の無いよう断っておくが、何かしらの進展を期待していたという意味ではない。手書きが礼儀だと思ったのだろうが、シャレ・遊び心でタイプした英文でも送ってくれたら拍手で応えようと決めていたからだ。尤も、向こうにしてみれば、宛先人に英語力が無いことを見抜いていただけかもしれない。

 以来連絡を取り合うこともなく、彼女のこともタイプライターの件も忘れた頃、ようやく手が届く価格のワープロが発売された。ただし性能はお粗末で、その言い訳として“ポータブル”を謳っているような代物だった。それでも悪筆の、意志の弱い誰かさんは飛びつかずにはいられなかった。(結局、3台のワープロを買い替えることになったのだが)

 ワープロのキーボードに触れるようになって、タイプライターにまつわる記憶が蘇った。そこで初めて意識したのは、タイプライターの『カチャカチャ』『パチッパチッ』という(打鍵・印字に伴う)独特の音である。現代のオフィスでは騒音になりかねないが、当時の会社やキャンパスではリズミカルな、活気に満ちた生活音だった。

 騒音のレベルが経済活動のバロメーターというのも皮肉な話だが、かつてタイピスト、あるいはキーパンチャーのスキルがもてはやされた時代を思い起こせば納得がいく。それに引き換え、昨今のキーボードの軽いタッチや抑えられた打音は、職場環境に優しいというよりも何かに遠慮しているかのようだ。もしくは、主張しすぎない奥ゆかしさか。

  ふいに初々しい女子大生の姿が脳裏を過った。

(彼女なら現在の風潮をどう思うだろうか?)

 記憶の彼方の彼女は何も答えない。けれど、これまでの奮闘ぶりは想像できた。年を経てもその生真面目さや一途さは健在で、機器がパソコンに替っても、タイプライター仕込みの華麗なタイピングを披露して周囲を瞠目させたに違いない。

 だが、ほのぼのした思い出に浸る間もなく、幻影の向こうから1枚の紙片を突きつけられた。

keep challenging yourself

(挑戦し続けましょう!)の意か? 

 反射的に視線が泳いでしまった。

 ・・・それでも拍手を送ろう、約束通り。

バイカーの系譜

〈昭和の忘れもの〉バイク編㉙

【カワサキ 650-W1SA】

 かつてバイク仲間のNが乗っていたのがカワサキ・650-W1Sだ。ダブワンの愛称で親しまれ、オールドバイクファンにとっては垂涎の的だった。

 その伝統的なバイクを現代風にモディファイし、1971年に登場したのが650-W1SA(カタログ表記はどちらもW1スペシャル)である。このマイナーチェンジでは多岐に亘って細かく手が入れられたが、どれをとっても技術陣の誠意が感じられるものであった。最大のトピックは、先代が伝統を踏襲して左ブレーキ・右ギアチェンジペダルだったのに対し、一般的な左ギア・右ブレーキペダルとなったことだ。この改良により、ダブワンは格段に乗り易いバイクとなったのだ。

 実は、市場はすでにナナハン時代に移行しつつあり、カワサキも新機種の投入を控えていた。それが後年の名車・750RS、いわゆるZ2(ゼッツー)であった。650-W1SAはいわば750RS発売までの繋ぎとして世に出したのだが、関係者にとっては嬉しい誤算というべきか、ファン層が広がって一時的ながらダブワンブームが再燃したのだった。

 このバイクに、というか乗り手に出会ったのは80年代初頭、自分もCB750fourを所有していた頃だ。社会人の仲間入りをしたものの、まだ浮草のような日常を送っていた。今だから言えるが、本来バイク通勤は禁じられていたにもかかわらず、度々その禁を破っては悦に入るという、相変わらずのアウトローを演じていた。コンプライアンス意識が希薄な時代とはいえ、若気の至りと俯くしかない。

 折りしも新年度の異動シーズンで、その日は新しい係長が着任することになっていた。朝礼で紹介されたのは、厳つい顔立ちでがっしりした体躯の、建築現場の監督が似合いそうな人物だった。

 数日後の昼時、そのU係長に昼食を一緒にと声を掛けられた。行きつけの食堂へ案内すると、席に着くなり言われた。

「〇〇君はナナハンに乗ってるんだって?」

 誰かが進言したらしい。さすがに唐突だったので、曖昧に言葉を濁した。若かったせいもあるが、いきなり自分の世界に踏み込まれたようで拒絶反応が前面に出てしまったのだ。もとより、上司と仕事以外の話をしたいとは思わなかったが。

 1週間ほど過ぎた快晴の朝。駐輪場にナナハンを停めると、キャブトンマフラーの重低音が背後に迫った。エンジ色のタンクに黒のラインが入ったダブワンが数台の自転車を挟んで停まり、がっしりした体格の人物が車体の横に降り立った。なんと、それはU氏だった。

「私も長年オートバイに乗ってるんだよ」

 以来、同好の士を得たとばかりに距離を詰めてくるのだが、こちらにその気はなかった。旅先で出会ったライダー相手であれば、歳の差など関係なくバイク談義に興じることもできるのだが、仕事絡みとなるとそうはいかない。公私の区別も含め、立場の忖度といったバイアスが掛かってしまうからだ。

 その日も、こちらの当惑には無頓着で話が止まる気配はなかった。いい加減辟易していると、1枚の写真を見せられた。そこには、庭先に停めたダブワンのシートに跨って、満面の笑顔を見せている幼い女の子が写っていた。後ろに乗せてツーリングにも行くんだよ、そう付け加えたU氏は父親の顔をしていた

 他人の家族のスナップなど普段なら見る気にもならないが、この1枚は違った。買い物の足にも愛娘を乗せたツーリングにも、このダブワンはごく自然に寄り添ってきたに違いない―――そう思わせる、得も言われぬ空気感・幸福感が漂っていた。

 生活・家族の中に違和感なく溶け込み、かつ存在感を放つバイクの持ち主の心情。それは、バイクとは1対1で対峙するものと信じてきた自分の感覚とは相容れないものだ。あるいは年齢を重ね、家庭を持てば理解できるものなのだろうか。

 答えを出すことはできなかったが、便宜的に「ライダー」と「バイカー」との違いだと己を納得させた。あまりに感覚的で定義も曖昧ではあったが。

 あれから半世紀近く経つが、自分にはバイク愛を引き継ぐ人間がいない。一方、U氏の娘さんや孫にはバイカーのDNAがしっかり引き継がれていることだろう。悔しいが、不思議とその確信だけはあるのだ。なぜか、幼い女の子の笑顔が目の奥に焼き付いて今でも消えないからだ。

 因みに、バイク通勤の件はお咎めなしだった。U氏が手を尽くしたのだろうが、同罪で一蓮托生を回避するためには当然か。大人の世界はやはり難解だ。

 

弾き弾かれ

〈昭和の忘れもの〉モノ・コト編㊼

【ピンボールマシン】

(上)バンパー〈数字の入ったキノコ状の装置〉

(下)フリッパー〈左右の白い羽状の装置〉

 古典的なアーケードゲームの代表といえばピンボールマシンだろうか。まだテレビゲームなど無かった頃は遊園地やボーリング場、あるいはデパートの屋上にも当たり前のように設置されていた。

 自身が熱中していたのは中学生だった70年代初頭で、いくつかお気に入りの機種もあった。一時期、某国内メーカーも参入した経緯があるが、早々に撤退したこともあってか(代表機種等の)記憶はない。何より旧式のマシンの記憶が鮮明なのは、斬新な機構よりも、バックボックス(スコアボード)や盤面に描かれた“アメリカン”なグラフィックの魅力のせいだろう。

 もともと1930年代にアメリカで生まれ、40年代に基本的な構造が確立したとされている。その隆盛に合わせて多くの会社の参入・撤退が相次いだが、80年代になるとテレビゲーム等の台頭によって一気に衰退した。現在でも一定数が生産されているが、大半はマニア向け(個人所有)とのことだ。あの大きな躯体の置き場所があり、騒音も気にする必要のない住居環境の持ち主の特権というわけだ。

 傾斜した盤上を転がり落ちてくる鉄球を、フリッパーと呼ぶ装置で打ち返す。盤面には様々な仕掛けがあり、ゲートを通過したり、ターゲットにボールを当てたりして得点を重ねる。既定の得点数をクリア、あるいは特定のターゲットにボールを的中させたりゲートを通過させるとボーナスゲーム(1ゲーム無料)を獲得できた。そのために個々のマシンの特性や攻略法を研究し、いかにボーナスゲームをゲットするかと腐心したものだ。

 賞品がもらえるわけでもなく、獲得点数や無料でゲームを続けられるという自己満足だけなのだが、けっこう真剣にプレイしていた事実が今では信じられない。ゲーム代も当時の小遣い事情に照らせば決して安くはなかったはずだ。それでも、上級者になれば100~200円で1時間ほどは楽しめたので、コスパの良い娯楽だったといえるかもしれない。

 自身は友人と二人でプレイすることが多かった。1ゲーム3球のうち1,2球は交代で、3球目はいわばダブルスのように左右のフリッパーをそれぞれが分担した。フリッパーの操作には多くの“技”があって、ボールの勢いを殺して左右にパスをしてターゲットに打ち返したり、時間差で左右の操作を繰り返すことでボールの軌道を変えることも出来た。ただし、いずれもコンマ何秒、ミリ単位の判断が求められる。

 友人の彼とは幼馴染で長い付き合いだ。だから、あうんの呼吸というやつでコンビネーションには自信があった。加えて彼は左利きだったので、互いに利き手でボタン操作できるという強みもあったのだ。

 一人当たりの出費額に対しての実質的なプレイ時間は変わらないが、共同戦線という意識が2倍の楽しみを与えてくれた。そのくせ選手交代し、傍らで“戦友”がプレイしている盤面を、というより銀色の鉄球の行方を追い続けていると妙な気持ちになった。同じコースに見えながら、機械(バンパースリングショットと呼ばれる仕掛け)に弾かれるたびにその動きは予測不能となり、自分ではどうにもならない社会そのものだと思えてしまう。外力によって望まない方向へ弾き飛ばされ、辛うじて打ち返しても壁に当たってまた別の方向へ。そして最後には周りの総べてから見放されたように、アウトボールとして奈落に落ちていく・・・。

 たまらず身を捩って逃れようとすれば、その振動がマシンに伝わり『TILT』(強制終了)となってしまう。これもまた実社会に通じるようで、無理やり我を通せば周囲が拒絶反応を起こして孤立し、物事は進まなくなってしまうということなのだろう。そもそもボールが我が身なら、フリッパーで打ち返すことは自分を再び“嵐”の中に放り出すという矛盾に満ちた行為に他ならない。

 この自虐的な見方は明らかに後付け、こじつけである。当時中学生だったガキが真剣に将来を考えていたはずもなく、卒業前にはすでにゲームセンターから足が遠退いていたからだ。屁理屈をこねてピンボールと人生を重ね合わせようとする企ては、あまりに安直で傍目にもお見通しに違いない。したがって廉恥心で赤面するしかないが、それでも高校時分には真面目に己と対峙したこともあったのだ。

〈今の居場所は、見える景色は自分の望んだものなのか?〉

 ところが時の移ろいにつれて殊勝な思いも薄れ、気付けば、ゲームソフトの発売日に狂奔するファンやスマホゲームに夢中の若者に眉を欹てている自分がいた。ドキリとした。ツールやハードが変わっただけで、かつての自分たちの熱中と同じなのに。

 そんな自省とともに、体感として記憶されているマシンの物理的な大きさやターゲットの稼働音・衝撃音、フリッパーから伝わる鉄球の重量感が蘇る。

 そこに彼らの反駁が重なった。

「あんたに残された時間は長くはないが、次のボールを打ち出す勇気と再び弾き飛ばされる覚悟はあるのかい?」

 まさに改めて自問したことだ。しかし・・・即答できない自分が嘆かわしい。

 

ヒトラーの呪い

〈昭和の忘れもの〉クルマ編㉙

フォルクスワーゲン・タイプ1(ビートル)part2

 図らずも続編の形になったが、勿体ぶっているわけではない。未だに世界中に多くのファンを持つワーゲン・ビートルはその生産台数の多さゆえに、逸話も膨大に存在するに違いない。その中にあって、“虫かごの中のカブトムシ”というメルヘンな場面だけでは、個人的な思いを語り切れないと気付いたのだ。

 問題のビートルの持ち主は、K先輩の歳の離れたお兄さんだった。7歳上と聞いていたので、当時は22、3歳だったはずだ。どんな仕事をしていたのかは知らないが、その年齢でビートルを買えたのだから、かなりの高給取りだったのだろう。とはいっても、小学生だった自分はビートルの相場も知りはしなかったが。

 K先輩とは幼馴染で、幼少期に“近所のお兄ちゃん”として一緒に遊んだ仲だ。さすがに向こうが中学生になるとほとんど行き来がなくなったが、互いの家は30メートルと離れていないので、親同士も含めて何らかの接点は残っていた。

 用事があってK家を訪ねたことがあった。間が悪く本人が不在で、玄関先に出てきたのがお兄さんだった。

「何時ごろ戻りますか?」

「さあな。俺は忙しいんだ。ガキの相手なんかしてられないんだよ!」

 凄い形相で追い返された。細身で、いかにも神経質そうな人だった。というより、初対面なのにあまりに失礼な、横柄な人間だと思った。

「何でぇ、偉そうに。あんな言い方はないよな」

 ひとしきり友人にその不遜ぶりを吹聴し、二度とK家には行くもんかと心に決めた。

 それから1年ほど過ぎた頃、先輩の父親が亡くなったと聞いた。数年前から病気で臥せっていたという。当時はどうすることもできない、余命が5年か10年かもわからない難病だったらしい。

 先輩のお兄さんは、父親に代わって家計を支えていた母親を助けるために、高校を卒業してすぐに働き始めた。懸命に働き続けて数年が過ぎ、父親の容態が安定していたこともあって、弟のK先輩の進路が決まったのを機に念願だったビートルの中古車を購入した。それは決して贅沢などではなく、自分へのご褒美であり、さらに頑張って働くためのエネルギーの源でもあったのだろう。

 しかし、父親の容態が急変し帰らぬ人となったのだ。病状が安定し、僅かな希望が見えて気が緩んだのかもしれないが、高額な買い物をすることで、『もう親父は大丈夫なんだ』という自己暗示を補強したかったのかもしれない。

 先輩も含めて家族全員が、病床の父親が明日にも亡くなるかもしれないという恐怖と向き合い続けてきたのだ。その緊張と不安の連続の日々は、当事者でなければ理解できないだろう。そうした状況下では、休日にドライブを楽しむという気分にもなれなかったに違いない。

 鬼のような形相で怒鳴られた記憶は消せないが、病床にあった父親の苦悩や肉体的苦痛の代弁者だったのだと思うと、苦言を呑み込むしかなかった。同時に、親類を含めて身近な人間の死というものに初めて触れた衝撃・恐怖は忘れることができない。

 以来、無意識にK家前の道を避けたり、通行の際に頭の中で昔の生け垣だった映像と差し替えるといった、見当違いの罪悪感と防衛本能の狭間で鬱々とする日々が続いた。

 時間がかかったが、ようやく平常心を取り戻した時には鉄扉の向こうの“カブトムシ”は消えていた。後で知ったことだが、先輩のお兄さんは一周忌の法要の後、家を出たという。父親の苦しみを見続けた家が辛かったのか、単に解放感から、思う存分ビートルを乗り回したくなっただけかもしれない。どちらにせよ誰も責めることはできない。

 その後、バイクを介して先輩との接点が復活した時期もあったが、ほんの束の間のことだった。ほどなく先輩も家を出て、一家は離散した。家族間でどのような感情が錯綜したのか、他所の家庭の事情は知る由もない。

 度重なる衝撃に気持ちが追い付かず、心を鎮める手段に悩んだ。終いには『ヒトラーの呪い』という都市伝説ともオカルトともつかない“風説”に逃げ込むしかなかった。しかも、答えを出せないまま歳月を見送った挙句、自身も転居してしまったのだ。

 それさえも過去になったある日。ふと逃げ出した過去に区切りをつけたいと思い立ち、懐かしい街の路地を辿ってみた。家並みはすっかり変わっていたが、あのT字路だけは昔のまま人車の往来を見守っていた。それに勇気を貰い、正面の景色を見据えた。

 意外にも、ノスタルジーに邪魔されることなく現実を受け入れることができた。ビートルの愛らしい顔も病気の父親を支えた家族の姿も、新しいフェンスの向こうに今はもう無いのだ、と。

ヒトラーの呪い・・・ヒトラーは自ら構想した「国民車」が国内外で活躍する姿を見ることはできなかった。「第三帝国」の野望が潰えたためだが、その無念さが怨念となって災厄をもたらしているとした説。

 

 

 

虫かごのムシ

〈昭和の忘れもの〉クルマ編㉘

フォルクスワーゲン・タイプ1(ビートル)】

 

 ワーゲン・ビートルは世界中で愛され、2003年にメキシコ工場で最終車両がラインオフするまで累計2153万台が生産された。これは単一モデルの最多量産記録(4輪)となっている。

 しかし、その誕生については紆余曲折があった。概略としては、ナチスヒトラーが掲げた「国民車構想」の下、その設計をフェルディナント・ポルシェに依頼したことに端を発する。同様の構想を抱きながら何度も挫折を味わったポルシェにとって、ヒトラーの申し出はまさに渡りに船だった。

 ヒトラーの性能要件は厳しかったが1935年にプロトタイプが完成、1937年には何とか30台の生産に漕ぎつけた。ところが1939年、ヒトラー自ら第2次世界大戦を惹き起こし、またしても計画は頓挫することとなったのだ。

 終戦後の1945年、皮肉にも対戦国の英国の手によってフォルクスワーゲンの量産が始まった。この際、型式の「タイプ1」が定められたとされている。愛らしい“顔”と柔らかな曲線の車体の背後には、こうした戦争の影が潜んでいたのだ。

 日本では1952年に「ヤナセ」が取り扱いを開始し、国内にも徐々にモータリゼーションの風が吹き始めた。とはいえ、1960年代半ばまではまだ自家用車は高嶺の花で、多くの庶民には簡単に手の届くものではなかった。それを象徴しているのが当時の住宅事情である。自身の住んだ地域は昔ながらの古い家が建ち並ぶ住宅地だったが、現在のように駐車場ありきの設計にはなっておらず、接道面にクルマの出入りできる開口部のある家はなかった。後年自家用車を手に入れた家もあったが、道路側の塀や生け垣を撤去し、庭の一部を潰して造営するのが一般的だった。

 道路事情も推して知るべしで、十分な整備計画もなく民家に合わせて敷設していたというのが実情だ。我が家の近所も直交ではない鋭角を含む四つ辻や、一方通行の出口を含む道幅がバラバラの5差路、民家の庭先に突き当たるT字路等、今思うとカオスともいえる状況だった。歩行者専用(?)の細い路地も多く、私鉄の最寄り駅まで徒歩で5分ほどの至便な立地にもかかわらず、クルマだと遠回りになるのでそれ以上の時間がかかった。

 自宅前の道路を東へ少し進むとすぐにT字路に突き当たる。その正面にK宅があった。あのホワイトダックス(「ムズムズ」バイク編④)の主であるK先輩の家だ。くどくどとこんなことを書いたのは、字面ではわかりにくいが、このK宅の複雑な立地について想像してほしいからだ。この先の話は、まさにその想像力に期待するしかない。

 あれは小5か6年のある日、風邪で2,3日寝込んだ週明けのことだったと思う。久しぶりに家を出て外の空気を吸っていると、何とも言えない違和感を覚えた。原因は何だろうと周囲を見回すと、見えないはずのK宅の庭が露わになっていた。視界を遮っていたサカキが伐採され、鉄製の門扉が作られていた。扉と言っても鉄格子のように鉄棒が嵌っただけの引き戸だ。週末に突貫工事で仕上げたのだろう。

 変容の理由は数日後に判明した。その鉄扉の向こうに黒光りした物体、フォルクスワーゲン・ビートルが収まっていたのだ。

「駐車場だったんだ! すげぇ、外車だ!」

 先輩の家は、幅5メートルの一方通行の道路と1メートルほどの未舗装路の角地にあり、かつT字路の突き当りという複雑な立地だった。ただ、それまでは南に面した細い未舗装路側の門が出入り口になっていて何の問題もなかった。しかし、クルマを買うにあたり、広い道路側に開口が必要になったというわけだ。

 この変化はバイパスのように縦断道路を利用している人間には関係ないが、枝道を日常使いしている近隣住民にとっては大きなインパクトがあった。こちらは一時停止が必須であり安全確認に怠りはないとしても、それまで生け垣の“壁”だったのに、ある日突然“対向車”が出現したのだから。

 いずれにせよその日を境に、自宅を出るとすぐに格子の向こうのビートルとご対面・・・というのが一つの景色になっていった。だが、それがまさに静止画のように見えていたという不思議な感覚があった。実際には出入りがあったのだろうが、生活時間帯のせいなのか、“鉄格子”の向こうに停まっている姿ばかりを記憶している。まさか、見栄のために不動車を置いたわけでもないだろう。

(これじゃ「カゴの鳥」ならぬ「虫かごのカブトムシ」そのものじゃないか)

 能天気でお気楽なガキでしかなかった自分は、哀れみと失望感とで見当違いの悪態を吐いていた。“ビートル”の愛称を貶めたと非難されても仕方がない。

(ここで予定の紙数が尽きた)

*実は、当時のK家には心痛む事情があったのだが、年明けに相応しくない話題なので後編として回を改めようと思う。消化不良・中途半端との誹りは免れないが、ご容赦いただきたい。

魔法は続く

〈昭和の忘れもの〉モノ・コト編㊻

【『サンダーバード』~スーパーマリオネーションの世界~】

©APフィルムズ・センチュリー21プロダクション(以下同)

青島文化教材社

サンダーバード』は1965~1966年に英国でTV放映された、名プロデューサーのジェリー・アンダーソンが手掛けたSF特撮人形劇である。日本では1966年秋の初放送から人気に火が付き、各局で再放送が繰り返された。

 「国際救助隊」という設定や世界観が明確であり、ミニチュアの作り込みの丁寧さや撮影スタッフの技術と努力が光っていた。何といっても登場するメカの重厚感とリアリティーは圧巻で、その迫力ある特撮映像は実写さながらであった。

 その人気に玩具メーカーが目をつけ、主人公たちが操縦する「サンダーバード(1~5号)」の他、登場するスーパーメカのプラモデルが続々と発売された。いずれも少年たちを中心に爆発的な売れ行きだったが、特に「サンダーバード2号」は人気で、自身もお年玉を握りしめて模型店へ走った記憶がある。

 メカと同様に、特筆すべきは人形の造形と操演者たちの技量だろう。劇中で使われた人形には「リップ・シンクロ・システム」が内蔵されており、声優の台詞に合わせて唇が動く仕組みになっていた。こうした機能を駆使した技法は「スーパーマリオネーション」と呼ばれ、操演者の巧みな糸捌き(?)と相まって人形たちに命が吹き込まれたのだ。それはまさに職人技というべきもので、彼ら無くして作品の成功はなかっただろう。技術屋とか職人技と聞くとつい日本的な感覚に思えるが、拘りを持つ人間は世界共通らしい。

 革新的だったのは映像部門だけではなく、音楽もオーケストラサウンドによる本格的なもので、劇中に曲が流れている間は台詞を入れないという徹底ぶりだった。そうした拘りは年齢とは無関係に伝播し、子供たちの想像力と創造力を搔き立てた。

 前述したようにサンダーバード関連のプラモデルは大量に販売されたが、少年たちの多くが単に模型を組み立てるだけでなく、完成後に活躍の場面を空想することを含めて楽しんでいた。すなわち、劇中には登場しない“装備”を積み込んだり、独自の災害現場を設定してストーリーを展開させるという、まさに“空想科学”的な遊び方が自然発生的に広まったという。

 リアリティーを追求したミニチュアの建造物やメカ、敢えて表現の難しい人形を用いる手法はアナログの象徴に思える。しかしそれがかえって想像力を刺激し、感情移入を促したのかもしれない。

 後年、実写版やリメイク作品等が数々制作されたが、いずれも印象が薄い。例えば2015年の3DCG作品『サンダーバードARE GO』はリブート版ということもあり、オリジナルをリアルタイムで観ていた人間からすると、残念ながら全くの別物と言わざるを得ない。メカや情景の表現は精緻だったが温もりと手触り感が抜け落ちてしまい、CG特有の排他的感覚が拭えなかった。尤も、それはアナログ世代の偏見であり作品の正当な評価基準かと問われれば、それもまた悩ましい。

「CGが無い時代だったから、ミニチュアで再現するしかなかったのだ」

 正論かもしれないが、だからといってどちらが優劣ということではないだろう。SFXからVFXへと映像制作の技術が進歩しても、作品の価値が上下するわけではない。あくまでも、作品の内容と制作者の意図・表現方法がマッチするかどうかが肝要なのではないか。

 SFXであれVFXであれ作り手の叡知や情熱が画面(あるいはスクリーン)から感じられたとき、観客は“体感・体験”し、心が震えるのだろう。送り手の創造力と受け手の感性の総和によって一流の作品は生まれるのだ。

 ただ、言葉遊びをするつもりはないが『サンダーバード』はSFXではなく、敢えて「特撮」作品だと言いたい。携わっていた誰もが“匠”であり、手腕と知恵によって現実世界に無いものを我々に見せてくれたのだ。驚愕と好奇心で胸躍るマジックやイリュージョンのように。いや、映像世界ではロマンの要素も加味して魔法と言うべきだろうか。

 その不思議な力から抜け出すことは難しい。けれど、そんな世界でずっと生きられたらどんなに楽しいだろうとも思うのだ。そうなれば、文字通り人形のように“操られて”いたのだと気付いても、幸せな時間の記憶が消えることはないだろう。

そして、魔法は続く・・・。