syouwanowasuremono’s blog

懐かしい旧車・モノ・コトにまつわる雑感

昭和の忘れもの

「油断大敵」

ニッサン ブルーバードU1800】クルマ編⑥

f:id:syouwanowasuremono:20210410001022p:plain

 まだロータリークーペを手に入れる前の話である。

 4輪の免許を取得したものの、我が家にはマイカーが無かったので、実質的にペーパードライバーの時期がしばらく続いていた。

 その年の夏。父方の法事があり、親戚筋のD氏から借りたクルマの運転手を務めたことがあった。先方には運転手が免許取り立てだということは伝えてあったようだが、初心者の若造に愛車を貸すというのは結構な勇気といえるだろう。あるいは、よほどの義理があったのか。だが、そんな大人の事情は関係なかった。理由はどうあれ、本人はクルマの運転ができるというだけで盛り上がっていた。

 当日の午前9時頃。D氏の職場の金属加工工場にバイクで乗り付け、敷地の奥に停めてある目的のクルマを見つけた。青いブルーバードUだった。当時の上級車で、初心者の自分が乗り回していいのか躊躇ったが、今日の役目は“運転手”なのだと割り切った。

 期待と不安を抱きつつキーを捻った。エンジンはすぐに目覚めた。教科書通りしばらく暖機運転の後、ゆっくりとスタートした。

 自宅に寄って父親を乗せ、改めて法事が行われる寺を目指した。バイクで走ったことのある道だったが教習所以来の4輪、しかも借り物ということで神経は張り詰めていた。

 慎重な運転の甲斐あって無事に目的地に到着し、一安心。法事も滞りなく済んだ。

 帰路も順調だった。午前とは逆の順序で、自宅を経由して工場へ向かう。

『仕事が終わる6時までに戻しておいてくれればいい』

 D氏との約束の時間にはまだ余裕があった。おかげで明るいうちに工場に着いた。速度を落として奥へ進む。だが、何となく午前と感じが違った。ブルーバードが停めてあった場所に別のクルマが停まっていたからだ。一瞬戸惑ったものの、もともと厳密に区分けされた駐車場ではなかった。開けた敷地にラインやロープは見当たらない。

 そんなわけですぐに気持ちを切り替え、そのクルマの隣に駐車することにした。スペースは十分で、車間を気にする必要もなかった。右のミラーとルームミラーで後方を確認し、ゆっくりと後退させた。あと50㎝・・・。やれやれ無事だった。と思った次の瞬間、後部に鈍い衝撃があった。

(えっ!? 何かにぶつかった?)

 慌ててクルマを降りて後部を確認した。すると直径1メートル、高さ70㎝ほどの鋼鉄製の部材がトランク部分にめり込んでいた。

 どうやら解体した巨大な配管部材の一部で、それが敷地の片隅に無造作に放置されていたのだ。もっと慎重に左右のミラーを確認すれば気付けたかもしれないが、車内からは微妙な高さで死角になっていた。いや、言い訳しても仕方がない。速度は遅くても、相手が悪かった。クルマがぶつかってもびくともしない巨大な鉄の塊で、しかも鋭角の切断面があったのだ。

 結局、D氏に平謝りして、結構な額の修理代を弁償することになった。当日の走行距離はトータル50㎞程だったが、最後の50㎝で大失敗を犯した。まさに油断大敵という言葉が身に染みた日だった。

 しかし同時に、一日も早く自分のクルマを買うぞと、決意を新たにした日でもあったのだ。

 

昭和の忘れもの

「先進と回帰」

プログレッシブ・ロック】モノ・コト編⑯

キングクリムゾン ピンクフロイド ELP 他

f:id:syouwanowasuremono:20210330115245j:plain

 自分には音楽的な素養は無い。だから、お気に入りの曲というのはまったくの独善で取捨選択してきたものだ。そうやってたまたま掬い取った音楽の中には、ギター一本のフォークソングから機材の総重量が10tに及ぶビッグバンドまでが含まれる。自分の感性に響くかどうか。文字通り「音」を「楽」しむ聴き手は、そんなスタンスでいいのだろう。

 尤も、そんな心境になれたのはそれなりの年齢になってからである。実際、トレンドとしてのプログレッシブ・ロックが台頭し始めた70年代初頭、個人的には音楽性よりもその先進性に傾倒し、何となく時代の先取りをしているような気分になっていた。

 周囲の大勢が熱狂していた某ロックバンドの曲に背を向け、少数派に属していることに価値があると思い込んでいた。愚かにも、『アンチ主流こそが正義である』という論理に毒されていたのだ。

 ところが、ピンクフロイドの『狂気』は全世界で5000万枚以上のセールスがあったという。配信全盛の現在では想像も及ばないが、物理的に途方もない数である。購入動機はともかく、それだけの人間が同じアルバムを手にしている現実は驚愕と同時に、“少数派”という前提を打ち砕いた。結果的に異端でも孤高でもなくなり、それまでの輝きが一瞬で消えたような喪失感に襲われた。

 だが、開き直って手持ちのプログレに属するレコードを片っ端から聴いているうちに、(音楽的な技術についてはわからないけれど)彼らの才能が発するエネルギー、作品の完成度の高さが自然に伝わってきたのだった。

 無用な理屈を取り払って向き合えば、素直に感性が判断を下してくれる。これこそが言語を超えた音楽の力なのだ。いや、芸術全般に共通する原理と言えるだろう。

 さも大発見のような感慨を覚えてからずいぶんと時は流れた。

 レコードキャビネットを漁り、洋楽ファンでなくても見聴きしたであろうメジャーなこの3枚のアルバムを引っ張り出してみた。懐かしさはあるが、なぜか映像が浮かばない。邦楽・洋楽を問わず、当時のヒット曲にはたいてい思い出という“連れ合い”がいるのだが、プログレには不思議とそうしたウエット感が薄い。

 もちろんこれは感覚的なもので、個人的な思い込みなのだろう。単に(英語力が無いので)歌詞が理解できない分、余計な過去の情景を排除しているだけのことかもしれない。ただ、それだと他の洋楽にまつわる思い出や情景が鮮明なことの説明がつかない。

 無理やり詭弁を弄せば、「既成の音楽の解体」「革新的な音楽の創造」というミュージシャンたちの気概が根底にあったということだろうか。

 残念なのは、技術屋でない彼らには未来の音楽シーンの激変を予想することができなかったことだ。構想や演奏機材は先進でも、作品(曲)の伝達手段は相も変わらずプレスされたレコードであり、その溝から針先で音を拾うというアナログだったのは皮肉である。

 その後、音楽メディアは急速に進化し続け、気がつけば「プレーヤー」と呼ぶ機器が消えつつある。これを進化と呼ぶべきなのか。いささか疑問だ。

 そこで原点回帰。レジェンドたちが創造した、当初の思いの込もったこれらのLPレコードを改めて聴くのも悪くないだろう。そこにはきっと、歌詞にはない魂の声が込められているに違いない。

 そんな盲信のせいで、当分はレコードプレーヤーを手放せそうもない。

昭和の忘れもの

「決別」

【SL350 part2】バイク編⑮

 ーーある愚か者のモノローグーー

f:id:syouwanowasuremono:20210320013414j:plain

 タイトルで悩んだ。季節柄、捻らずに「卒業」も考えたが、どこか受動的で行儀が良すぎるのが気になった。加えて、未来とセットのような、次の居場所を確保できた者だけに向けての証明書のようなニュアンスに抵抗を感じ、見送った。

 以前、このSL350とは上手く付き合えたと書いた。故障続きで手間が掛かり、散々不平不満を漏らしていたのは事実だが、このバイクを通じて多くのことを経験したのも事実である。正味2年に満たなかったが、濃密な時間だった。

 SL350は“青春”そのものだった―――小説やドラマの中なら何の衒いもないが、自分で言葉や文字にしてしまうと、これほど陳腐で気恥ずかしいことはない。しかし、今回は感傷にまみれ、嘲笑に晒されることも受け入れよう。

 誰もが同じ道を歩んできたに違いない。目前の進路問題や、頭から離れない“あの子”のこと。そもそも自分は何がしたいのだろう? 何者になりたいんだ?

 そんなことを考えながらの毎日は、まるでジェットコースターに乗っているようなものだった。穏やかに朝を迎えても、日中の些事に傷つき振り回され、夜には膝を抱えて塞ぎ込む―――時代はアナログだったが思考回路は右か左か、0か100(%)かのデジタル世代だった。根底にあったのは先進ではなく、未熟ゆえの単純さと選択肢の少なさであった。

 そんな時、黙って寄り添ってくれる“相棒”はこの上なく頼もしい存在だ。けれどある時、ふと思ってしまったのだ。

(こいつは多くの事を知り過ぎている。一緒にいる限り、過去から逃れることはできない)

 仲間との日々は楽しい思い出だったが、Yの「自意識過剰事件」以来、各自の間に不協和音が生じていた。そこには進路という現実も影響していたのだろう。

 工業高校、高専、大学付属校・・・学校がバラバラなのは、進学の時点で彼らがある程度の方向性を決めていたからだ。次のステップが確定している彼らにとって、現在の足場が失われても実害はないのだ。何のことはない、自分だけがお気楽な毎日に流され、自由な時間が有限だということに気付けなかったというわけだ。

 無為に過ごした日々を後悔しても、時すでに遅し。そこに失恋(一方的な想いが受け入れられなかっただけだが)という痛手が加わり、さらに精神的に追い詰められた。

 煩悶の末、唐突に愛車を手放すことを決めた。仲間との思い出やマシンに対する思い入れ。自身と真摯に対峙しなかった後悔。明確な明日が見えない焦燥感。間近に迫る高校生活の終焉。それらが混沌として収拾がつかなくなり、一種の思考停止状態に陥っていた。

(ひとまず総べてを捨てよう)

 短絡的な結論だった。リセットしてやり直そう―――そんな建設的な発想ではなかった。時代を纏ったタイムカプセルのようなバイクを置き去りにすることで、自身は身軽になれると錯覚しただけだ。前に進めるかどうかは別の問題なのに・・・。

 別れの日。業者のトラックの荷台に載せられて遠ざかるSL350を見送りながら、不覚にも涙腺が緩みそうになった。モノに過剰な感情移入をしてしまうのは愚かだが、逃れようのない情理の存在は否定できない。思い入れには覚悟も必要なのだ、いつかやって来る決別の時も含めて。

 その心情を端的に伝えられない語彙力の乏しさがもどかしい。そこで、それを補うために(本来なら禁じ手だが)才人の力を借りることにする。

 例えば、この歌(曲)。これを聴いて頂ければ、愚か者の戯言に惑わされることなく、多くの人たちに頷いてもらえるだろう。

 〽 めぐるめぐるよ時代は巡る

   別れと出逢いをくり返し

   ・・・・ 

      (中島みゆき『時代』より)

昭和の忘れもの

「少年と翼」

【エンジン機(Uコン)】モノ・コト編⑮

f:id:syouwanowasuremono:20210310003344p:plain

 正式名称は「コントロール・ライン」といい、現在も熱心な愛好家たちによって全国大会が毎年開催されている。一般的に流行っていたのは60年代から70年代にかけてで、地域の少年たちは「エンジン機」あるいは「Uコン」と呼んでいた。

 日曜日。小学校の校庭に年上のお兄さんたちがやって来る。それぞれが鮮やかにカラーリングされた模型飛行機とバッテリーや燃料、種々の工具や部品の詰まった箱を抱えていた。少年たちはこれから始まる「航空ショー」に期待を膨らませ、飛行準備の過程を固唾を呑んで見守っていた。

 混合燃料をタンクに満たし、プロペラを指で回してエンジン始動。小さなエンジンだが、消音装置はないのでけっこうな大音量だ。スロットルを調整し、ひとりが機体を保持する。操縦者は20メートル程先の中心点へ向かう。手にしたU字型のハンドルを操作し、昇降舵の動作確認が終われば準備OKだ。

 操縦者の合図で機体は大空へ・・・とはいっても、その名の通りライン(ワイヤー)で繋がれているので、機体は常に操縦者を中心に半径20メートルの空間を旋回し続ける。

 何だ、つまらない。と言い捨てるのは早計だ。一度だけ補助を付けてハンドルを握らせてもらったことがあるが、想像以上に強力なエンジンのパワーに身体を持っていかれそうだった。

 確かに初心者の操縦では単調で面白くない。しかし、上級者のそれは別次元である。宙返りはもちろん急上昇に急降下、8の字飛行や背面飛行と、とてもワイヤーで繋がれているとは思えないアクロバティックな技が次々と繰り出される。まさに自由自在で、見物人の目は、上空を舞う模型飛行機を飽くことなく追い続けるのだった・・・。

 だが、そんな光景も年々減っていくことになる。まずはUコンの危険性を指摘する声に学校側が応え、飛行禁止となった。続いて社会情勢の変化に伴い、いつの頃からか校庭に部外者が入ること自体が許されなくなり、休日には生徒さえ自由に利用できない学校が増えていった。安全第一という名目の下に公園や広場での遊びも次々と規制され、ボール遊びすらままならなくなった(都市部限定の話かもしれないが)。それは河原でも同様だった。

 飛行半径の限られたUコンに飽き足らず、ラジコン(因みにこれは登録商標である)に移った模型飛行機マニアもいたが、肝心の飛行エリアが規制されては意味が無かった。

 それでも、少年たちは大空への夢を忘れたわけではない。だが、現在のようなテクノロジーの発展を想像できただろうか。

 混合燃料の強烈な匂いやエンジンの爆音、ワイヤーを通じて腕や指先に伝わる機体の重さと振動、加えて操縦者を引き摺らんばかりの遠心力―――確かに模型に過ぎないけれど、機体と格闘しつつ一体となって空を飛んでいる、操縦しているという体感があった。それに対してモーターで軽々と飛行し、モニターで俯瞰しながらプロポ(コントローラー)で遠隔操縦するドローン(マルチコプター)は、同じ延長線上にあるものなのだろうか。

 当時の少年たちが抱いた直近の大空への憧れは、半径20メートルほどの空間に過ぎなかったかもしれない。ワイヤーに繋がれた、自由とは程遠い代物だったかもしれない。けれど、指一本では制御できない、全身を使って対峙しなければ負けてしまう「真剣勝負」の世界が存在したように思うのだ。これは比喩でもあり、ドローンに限らず新たなテクノロジーに対するアナログ人間の虚しい抵抗なのだろう。

 それでも、未練がましく呟いておく。

 機体さえ見えない遙か彼方へと飛翔できる無人航空機(ドローン全般)と、ワイヤーによって自身と繋がったエンジン機。果たしてどちらの翼が少年たちの望みだったのだろうか。

 

昭和の忘れもの

「晴れない疑問」

【ホンダ CB250EXPO(エクスポート)】バイク編⑭

f:id:syouwanowasuremono:20210228135753j:plain

 バイク仲間はそれぞれ高校が違うことはすでに書いた。彼らは、バラエティーに富んだ愛車そのままの個性的な面々だった。

 中でもYは当時では珍しい中高一貫校に通う、所謂「お受験」組だった。そんなことから折に触れて優越感をちらつかせる傾向があったが、気のいい仲間たちはさほど気にしていなかった。

 Yの部屋を訪れると、いつも吉田拓郎井上陽水のレコードがかかっていた。そこには仲間の誰かしらが出入りしていたが、人数が増えると二軒隣の平屋に移動するのが常だった。そこは六畳間と三畳、流しとトイレが付いていた。

「今は空き家だけど、親戚のものなんだ」

 歯切れの悪い説明だったが、大人たちに干渉されない“隠れ家”を提供してくれる人物を深く追求する者はなかった。

 実は、気になっていたのは本人よりも父親の方だった。息子を学費の高い私立校に通わせ、複数の不動産を所有している―――それだけで、周囲では父親の職業について様々な憶測が飛び交っていた。曰く、(今風に言い換えると)“土木業の社長”だとか、所謂“その筋”の幹部らしいとか。中でも真(まこと)しやかに噂されていたのは、県内の香具師(やし・寅さんでおなじみのテキ屋のことだ)の元締め説だった。

 根拠は不明だが、父親の背中に刺青があるのを見たとか見ないとか。今では御法度のようだが、当時は銭湯で普通に見かけたものだ。

 それはさておきY本人である。彼は確かに学業優秀で、顔も悪くはない。そんな彼は仲間のNに妙なライバル心を抱いていた。そう、女子に関して。だが二人の勝負は端からついていた。女の子に縁の薄かった身で言うのも気が引けるが、Nは確かに女子には“まめ”だったが、アプローチも付き合い方もスマートだった。

 それに対してYのやり方は強引で、下心が見え見えだった。十七、八の男子高校生の頭の中身など単純で似たり寄ったりだったが、それにしても露骨すぎた。

 ある時、ついに問題が起きた。仲間の一人がある女の子に好意を持ち、いい雰囲気になったところへYが割り込んだのだ。当人が本気なら他人が口を出すことではないが、そうではなかった。自分の方が優秀なのに、可愛い女の子が仲間の別の男に好意を持ったことが気に入らなかったらしい。結果は明白だったが、その歪んだプライドに、さすがに皆が呆れた。

 そんな自意識過剰なYについて、ずっと疑問に思っていたことがある。バイクに関しては地味なマシンに甘んじていたことだ。彼の愛車CB250EXPOは、熟成されたバーチカルツインエンジンの信頼性とバランスの取れたトータル性能が高く評価されていたが、Yの普段の言動からすると意外な気がした。なにしろライバル視していたNがダブワン(650㏄)に買い替えた時には、「俺はナナハンに替える」と散々息巻いていたのだから。

 考えを巡らせて、はたと気付いた。Yがナナハンを買わなかった理由、正確には買えなかった理由が。それは彼が自覚していた唯一の欠点、161㎝という身長である。その身長では地面に両足を着けることができないのだ。爪先だけなら辛うじて片足が着くが、路面に傾斜があればバランスを崩して転倒する怖れがある。万が一そんな無様な姿を晒してしまったら、彼にとっては生き恥だ。信号で停車する度にそうした緊張を強いられることは耐えられないだろう。

 Yは賢明にも思い留まった。というよりも、すでに気持ちは四輪に移っていたのかも知れない。仲間の先陣を切ってクルマで登場する―――そんな展開を目論んでいたとする方が合点がいく。やれやれ、これですっきりした。

 しかし、別の疑問が再燃してしまった。Yの父親の職業である。噂の真偽は? 本当は何者だったのだろう? 

 このモヤモヤは気持ちが悪い。今さら何を聞いても驚かない。だから、誰か教えてくれ!

 

昭和の忘れもの

「漂流の彼方」

NHK総合ひょっこりひょうたん島』】モノ・コト編⑭

f:id:syouwanowasuremono:20210220001918p:plain

 東京五輪2020が揺れている。(名称の変更はないらしい)

 高度経済成長の端緒となった前回の東京五輪の開催年、1964年の4月に人形劇「ひょっこりひょうたん島」の放映は開始された。

 といって、両者に因果関係があるわけではない。共通点といえばどちらも目的達成のために多くの技術者、あるいは才能ある人材を集めることができたのが成功の鍵であった。とこれは筆者の私見、まったくのこじつけである。

 さて。当時8歳の少年を含め、夕方になると多くの子供たちがテレビの前に釘付けになった。物語は火山の噴火によって島が漂流するという荒唐無稽な設定で、しかも要所がミュージカル仕立てである。だが、少しも抵抗感はなかった。理屈抜きに面白かったのだ。

 その要因は熱意と才能溢れるスタッフ、声優陣によるところが大だったといえる。

 原作・井上ひさし山元護久。キャラクターデザイン・片岡昌。イラスト・久里洋二。声優には藤村有弘、楠トシエ熊倉一雄小林恭治滝口順平中山千夏増山江威子、etc・・・今にして思えば錚々たるメンバーである。(故人も列記。敬称略)

 楠トシエは後に「コマソンの女王」と呼ばれる天才肌で、当日に渡された譜面を初見で完璧に歌えたというのは頷けるとして、コメディアンであった藤村有弘は譜面が全く読めなかったが、他人が歌ったのを一回聞けば、本番では空で歌えたという・・・等々。彼ら彼女らの功績やエピソードは際限ないが、それは芸能・美術ライターの手に委ねる。

 つまりはこうした異種格闘技ともいえる才能の結集が、人々の心に残る作品を生み出したのだと思う。節目の年に記憶に残る作品が誕生したことは、時代の必然であったかもしれない。

 しかし、この番組名が浮かんだのは、成長した少年が「東京五輪」から連想した無意識の偶然である。時代を牽引する才能はどの分野にも必ず存在する。「ひょうたん島」はあくまでもその一例・象徴に過ぎない。またそれを見出し、認知するのは一般大衆である。

 それはあたかも太陽と月の関係のようだ。月は太陽が無ければ光ることはできないが、太陽もまた、月が無ければ自分が輝いていることを知ることはないのだ。

 だからこそ自分で輝くことのできない一般大衆は、性(さが)として自分を照らしてくれる“太陽”を探し求めるのだろう。こんなふうに考えてしまうのは自身が小市民の代表だからか。あるいは単なる老化か。

 物語の「大団円」で、ひょうたん島の住民は定住の機会を拒否し、さらなる大海原への漂流を決意する―――本当の自分は何処にあるのか? そう問い続けるために。

 探求心は消えない。悲しい人間の性(さが)である。

 文化とスポーツ。エンタメの窮状に思いが空回りして、テーマがブレてしまったようだ。もとより、同時に語ることには無理があったのだろう。

 オリンピック競技の体操のように、E難度の大技の後に肝心の着地が乱れてしまうことは、よくある。

 

昭和の忘れもの

「消えたバイク」

【ホンダ CB350four(フォア)】バイク編⑬

f:id:syouwanowasuremono:20210210002352p:plain

 地元から二時間ほどの、山間のキャンプ場に向けてツーリング中の出来事である。

 距離的にはたいしたことはないが、途中の峠越えは難所として知られていた。幅員が狭く、カーブの連続で慎重な運転が必要だった。幸い自分たちは何度も走ったことがあるので、特に危険な場所も頭に入っていた。

 当日は基本メンバーの6台で、先頭のペースメーカー役はXS650のFだった。彼は問題の峠に差し掛かったところでペースを落とし、仲間は隊列を維持しながら走行していた。

 ペースダウンして間もなく、後方から赤いタンクのバイクが接近してくるのがミラーに映った。自分たちよりも僅かに速いペースだ。短い直線で我々はセンターライン側を空け、その赤いバイクを先行させた。静かで滑らかなエンジン音。4本のマフラー。発売されたばかりのCB350fourだった。

 タンクと同色のヘルメットとシールドで顔は見えなかった。彼は左手を軽く振って我々の前に出ると、さらに加速していった。ただ、すぐにカーブの連続となったので、常に我々の鼻先3,40メートルの距離に見えていた。

 結局、赤いバイクを先頭に、少し離れて6台のバイクが連なるという図になった。しばらくはその隊列のまま、左右のコーナーをクリアしながら勾配を駆け上がっていく。時折後方で『カリカリッ』と道路を擦る音が聞こえる。車高の低いRX350は、コーナーで車体をバンクさせるとスタンドが接地して度々火花を散らす。それほどのきついカーブの連続である。

 二番手の自分には先行する赤いCBが見えていたのだが、大きく右に回り込んだコーナーを抜けた時にはその姿が消えていた。

(えっ? そんなに速いわけがない)

 次の瞬間、直前を走っていたXSがけたたましくクラクションを鳴らして急停車した。訳がわからなかったが、反射的にフル制動を掛けて辛うじて追突を免れた。後続車も続々と急停車した。

「何だ? どうしたんだ?」

 Fの視線の先を見て、全員が息を呑んだ。

 谷側の道路が幅1メートル、長さ5メートルに渡って崩落していたのだ。その部分のガードレールもなくなっていた。一昨日降った大雨のせいで地盤が緩み、土砂が流されたらしい。

「あのサンハン(350)は?」

 全員が悲惨な情景を思い描いた。恐る恐る谷を覗き込むと、5メートルほど下の草木の中に赤いヘルメットが僅かに動くのが見えた。

「大丈夫ですか?」

 弱々しい声が返ってきた。どうやら本人は無事のようだ。だが、バイクはさらに7,8メートル下の木の幹に引っ掛かっていた。ライダーは仲間が手を貸して道路まで引き上げたが、バイクはどうしようもなかった。

 当時は携帯もなかったので、その32歳の会社員だという男を最寄りの駅まで乗せていった。彼は近くの公衆電話であちこち連絡を済ませた後、改めて我々に頭を下げた。

「道路の異変に気付いた時には、もう間に合わなかった」

 まだ1000キロほどしか走っていない新車だったという。後日、重機で引き上げてもらうことになったようだが、再生は難しそうだ。たいした怪我もなく生還できたのだから不幸中の幸いと慰めるしかないが、愛車をこんな形で失うのはさぞ悔しかったろう。

 この出来事が暗示していたというのは穿ち過ぎだが、CB350fourは「CB4気筒シリーズ」の第三弾としてホンダが技術の粋を結集して世に出したにも拘わらず、僅か二年という短命に終わってしまった。エンジンを始め精緻な造りだったのに、旧型よりも重くて遅いという致命的な欠点があったからだ。さらに、免許区分改正の過渡期と重なってしまったことも不運だった。

 皮肉にも、この時の改正によって生み出されたCB400four(通称ヨンフォア)は今日まで語り継がれる名車となったのに対し、350fourはバイクフリークの一部にしか記憶されない「幻のマシン」となってしまったのである。

 ただ、個人的にはそうしたバイク史における悲運よりも、あの日、谷底に横たわった無様な姿が脳裏に浮かんでしまうのだ。おそらく仲間も同様で、決して忘れることなく記憶に留めているだろう。目の前で”消えた”バイクとして。