syouwanowasuremono’s blog

懐かしい旧車・モノ・コトにまつわる雑感

444(トリプルフォー)の呪縛

〈昭和の忘れもの〉バイク編㉕

 ホンダ CB750K

 CB750fourの後釜に、10年ぶりにフルモデルチェンジされたCB750Kが収まることになった。(愛車は新型のマイナーチェンジ版)

 エンジンは4サイクル4気筒で排気量も同じ750㏄だがDOHC(ダブル・オーバーヘッド・カムシャフト)化され、フレームも含めて機能・安全面共に刷新された。対して、スタイリングはオーソドックスで落ち着いた外観である。

 乗り替えに至るには多くの葛藤があった。お察しの通り、プロフィールネームの「銀タン750(ナナ・ゴー・ゼロ)」は手放したCB750fourへのオマージュである。尤も、それは年月を経て初めてその価値に気付いた結果で、己の浅薄さを戒める意味合いもあるのだ。

 750four入手の経緯は以前書いたが、以降、相棒として数多の経験と濃密な時間を共にした。だからこそ中途半端な向き合い方はしたくなかったので、バイク本体のライフサイクルの限界ならば潔く受け入れるつもりだった。その時は「エンドロール」(バイク編㉔)の心情そのままに、自身の2輪ライフそのものに終止符を打つ覚悟だったのだ。

 電装に対する不信、ミッションの不安、各部品の劣化―――それらを総合的に解決するには部品・アッセンブリーの全交換か、手っ取り早く新車を購入するしか途は無かった。しかし、すでに販売が終了していて新車の購入が適わない以上、これを機に2輪を卒業する決断をした・・・はずだった。

 当時、2輪メーカー各社は全盛期であり、小排気量から大排気量まで豊富なラインナップが続々と発売されていた。全般的にデザインは戦闘的になり、中でも目立ち始めたのが、いわゆる“レーサーレプリカ”と呼ばれるスポーツバイクだった。主力の中・大排気量車はフェアリングやカウリングを装着し、レーシングマシンそのものの派手なカラーリングが施されていた。

 街中には“レーサー”が溢れ、古いライダーの居場所は失われたように思えた。ある意味、それは“卒業”の格好な口実でもあった。

444(トリプルフォー)〈4サイクル・4気筒・4本マフラー〉のナナハンが出ればなぁ」

 などと殆ど実現性のない条件を吹聴し、それもまた言い訳の材料とするつもりだった。何より「4本マフラー」という条件は、排気効率や重量増の問題から設計段階で排除される最有力候補だった。ところが、そんな状況の中で4本マフラーのCB750Kが登場したのである。まさか前時代的なレイアウトのバイクが新しく発売されるはずがない、と高を括っていた自分が愚かだった。してやられた気がした。それは、過去に執着を抱いているオールドライダーの鼻先に“ニンジン”をぶら下げられたようなものだった。

 かくて、自分の言葉に責任を取る形でCB750Kを購入することになった。というのは、あまりに苦しい弁明だ。経済的理由でオーバーホールを断念したはずなのに、明らかに矛盾している。だから素直に謝罪し、告白しておく。“ナナハン”に対する女々しい未練だったと。

 メーカーの彼らは心得ていたのだろう。世の中に己の矜恃を旨とするファンがいることを。そして胸を張ってこう言うのだ。

「お客様のニーズに応えるのが我々の使命です」  

 そうした開発チームの熱意を称讃し、新開発のエンジンや安全性の向上を評価して購入を決めた人たちがいたのは間違いない。他方で、どこまでも偏質的な拘りで選択した人間もいるのだ。エンジニアの方たちには申し訳ないが、敢えて、そんなひねくれ者の負け惜しみの声も伝えておくことにする。

 革新的な機能・性能を求めていたのではない。444(トリプルフォー)の呪縛から逃れられなかっただけなのだ、と。

巨匠と”だるま”

〈昭和の忘れもの〉モノ・コト編㊳

開髙健とサントリーウイスキー・オールド

 開髙健は言わずと知れた文学界の巨匠である。ベトナム戦争時に特派員として従軍した体験を元にした『輝ける闇』『夏の闇』は、不朽の名作として名高い。(『花終る闇(未完)』を加えて「闇三部作」と呼ばれている)

 だが開髙の名前が広く知られるようになったのは、後年の釣りにまつわる紀行文の人気によるものが大きかったのではないか。純文学としての開髙作品は重厚で、テーマの奥深さが一部の読者には難解に映ることもあった。ともすれば、読む前に身構えてしまうような威圧感にも似た印象を持ってしまいがちである。

 しかし、釣行記は一転して溌剌とした昂揚感と冒険心に溢れ、読者を川や湖、そして海へと誘ってくれる。開髙の釣りへの情熱・探求心はもちろん、食や酒にまつわる機知に富んだ話は読者を飽きさせない。

*断るまでもないが、釣りに限らず洒脱なエッセイ集も多数出版されている。

 

 酒と言えば、周知のように開髙は「サントリーの前身である「壽屋」の宣伝部に籍を置き、後にいうコピーライターのような仕事をしていた。

 今やJapanese Whiskeyは世界的な評価を受け、驚くべき高値で取引されている銘柄も存在する。そんな現在の熱狂以前、70年代から80年代にかけて空前のウイスキーブームがあった。その牽引役が「トリス」「ホワイト」「レッド」「オールド」といったサントリー勢だった。中でも“だるま”の愛称で親しまれた「オールド」は、大衆からすればちょっぴり高級で、普段飲みできるようになることがサラリーマンの憧れだったりした。

 それが経済成長の波に乗って日常的に飲まれるようになり、やがて世界に進出するまでになったのだ。実際、80年代には単一ブランド(ウイスキー)で、年間販売数の世界記録を樹立した。当時、自室の飾り棚にもインテリア然と“だるま”のボトルが鎮座していたくらいだから、さもありなんと納得したものだ。

 オールドの人気には凄まじいものがあったが、秀逸なテレビCMの力も大きかった。起用された俳優らの知名度もあるが、「音楽」「コピー」「物語性」―――それらの総合芸術とも言える映像はCMの域を超え、短編映画の如き秀作が数多く創られた。気鋭のCMクリエーターたちによって、メディア広告が変革期を迎えていた時代でもあったのだ。

 言葉でウイスキー文化をもり立てていた開髙は、後に出演する側にもなった。並の文豪なら出演依頼を一蹴しただろうが、メディア畑出身である開髙は抵抗感を持たなかった。結果的にその風貌、言霊、食と酒との融合・・・それらによって「オールド」の”風格”といったイメージを醸成し、ひいては企業の、そしてウイスキー全般の地位を確立するに至った。

 その後、経済情勢や大衆の嗜好の変化によってウイスキーブームは一時下火になったが、時代を築いたイメージ戦略の手法は今でも業界の礎となっている。

 こうしてウイスキーの話をしながら、自身は殆ど下戸である。酒の味を語ることもできない。それでいながら巨匠の著書のページを開くと、わかるはずもない酒の味や各地の逸品料理の匂いが行間から立ち上ってきて、思わず喉が鳴ってしまうのだ。

 きな臭い世界情勢の中で「闇三部作」を読むことはあまりに気が重い。そこでせめて釣行記を初めとする軽妙な作品を手に、釣り上げた魚の感触や絶品料理の味を想像することで、束の間の平和気分を味わうことを許してもらいたい。

 そんな夢想のせいか、酒に弱いくせにグラスを傾けたくなった。当然、中身は琥珀色のウイスキーである。ロックか水割りか、はたまた・・・。

 小説だけでなく、広告・メディアの行き方も示唆していた慧眼の文士には畏敬しかないが、敢えて無礼を承知で胸の内で呟いてみる。

(巨匠、今宵はお付き合いください)

献杯!」

元号が改まった1989年の12月、昭和の終焉を見届けた巨匠は58歳で旅立った。

 

 

 

無事という空疎

〈昭和の忘れもの〉クルマ編㉑

【ファミリア 3ドア1600GT】

スタッドレスタイヤを組んだホイル

 災厄が続いた「ファミリア1500XGi」に見切りをつけ、7代目の「ファミリア1600GT」に買い替える決心をした。ロータリーは規格外として、1400から1500へと段階を踏み、今回ようやく1600㏄に到達した。何と謙虚なのだろうと自画自賛したいほどだ。

 7代目ファミリアはボディタイプが3種類、エンジンは2種類用意されていた。愛車に選んだ1600GTは、最もスポーティーな3ドアのホットハッチである。

 自分で言うのも何だが、このクルマは実に出来が良かった。サイズ感とパワーのバランスが絶妙で、且つ足回りがエンジンより勝っていたのでコーナリングも安心だった。さらにGT仕様のシートが絶品で、長距離の運転でも苦にならなかった。

 そういうわけで散々あちこちへ出掛けたのだが、不思議なことに劇的なエピソードの記憶がない。その大きな要因は、助手席に収まる特定の人物がいなかったせいだろう。良くも悪くも平穏な日々が流れて(流されて?)いたということか。

 数少ないトピックは、あるクルマ専門誌の「新型車レビュー」に採用されたことと、勢いでスタッドレスタイヤを購入してしまったことくらいだ。モノコト編ではスキーの話は過去になってしまったが、当時活躍したのがこの1600GTである。ただ、自発的というよりは友人に請われてというパターンが多かった。

 ある年のシーズン半ば。スキーを始めるきっかけとなった彼女にはすでに振られていたが、知り合いの“スキー女子”2人からトランスポーターとして声が掛かった。何の下心もなかったが、大枚をはたいて手に入れたスタッドレスタイヤは地元では宝の持ち腐れだったので、減価償却の観点から新潟方面への遠征を承諾したのだった。

 スキー最盛期の道路事情については以前触れたが、東京近郊から上越方面のスキー場に向かうには真夜中に出発しなければならなかった。その日も夜明け前に集合したのだが、生憎の雨模様だった。願いも虚しく降り出した雨は次第に激しくなり、予報では新潟方面も雨だという。せっかく予定を組んだのに残念だったが、雨中の滑走が悲惨だということはわかっていたので、スキー行はやむなく中止となった。

 女子たちは努めて「また次の機会に」などと慰め合っていたが、その落胆ぶりは見るに忍びないものだった。しかし、中止の決断は正解だった。夜のニュースで、新潟方面の大雪が報じられていたからだ。低気圧の発達によって当初の雨予報が雪に変わり、午後には猛吹雪になったという。ゲレンデは視界不良となり、高速道も一部閉鎖されたとのことだ。

 あのまま強行していたら、スキーはおろか帰宅も適わなかったに違いない。場合によっては遭難の可能性すらあったのだ。スキーを楽しむことはできなかったが、結果的に危険を回避できたのだからラッキーだったと言うべきなのだろう。

 表面上は起伏と映らなくても、振り返って初めてその意味や価値に気付くこともあるのだ。波乱に満ちた刺激的な日々も楽しそうだが、カーライフにおいては問題が起きないこと、すなわち無事であることはそれだけで幸運と呼んでいいのかもしれない。

 因みに、この1600GTは自分の手を離れるまで事故はもちろん、傷ひとつ付けることがなかった。これはある意味奇跡的である。ドラマチックな場面がなかったからといってそれが何だ。相対的に、平穏な日常の傍らに寄り添ってくれたクルマの存在自体が愛おしく思え、それだけで幸福感を味わうことができたのだ―――と鷹揚さを気取っても、なぜか負け惜しみの感が拭えない。波風の立たない日常がどこか空疎に思えてならないのは独善でしかないのだろうか。

 本音を言えば、「助手席は予約済なので乗せられないんだ」「ボディーの傷には理由があってね・・・」などと嘯きながら武勇伝を開陳してみたかった。それが今さらながらの妄想であり後悔でもあるのだ。                     

エンドロール

〈昭和の忘れもの〉バイク編㉔

 【CB750four part3】

 ようやく電気系統のトラブルから復調した頃だった。

 バイクの神(そんな物が存在するのか?)はとことん底意地が悪いらしく、小市民に次なる試練を与えた。1速から2速にギアチェンジする際、稀にギア抜けするという駆動系の不具合が発生したのだ。

 調べたところ変速機内のシフトフォークの変形、あるいは摩耗が原因らしい。早速販売店に持ち込んで修理・調整を依頼した。ところが整備後一ヶ月も経たずに同じ症状が現れたので、さすがにクレームを入れた。

 だが、店の対応は歯切れの悪いものだった。

「申し訳ないが、うちでは手に負えない。ホンダのSF(サービスファクトリー)に持ち込まないと」

 SFとは当時ホンダが全国の拠点に設置した、特殊工具・機械が完備されたホンダ車(2輪・4輪)専門の整備工場だ。したがって信頼度は絶大だが、技術料もそれなりに覚悟しなければならなかった。見積もりを依頼すると、我が愛車の場合はエンジン・ミッションを降ろして分解・整備・組み立てで十数万円かかるという。

 すでに電装関連で大金を支払った後だったので腰が引けた。そもそも、販売店できっちり修理できなかったせいなのに。どうにも納得がいかず、つい胸の内で悪態をついてしまった。(やっぱり中古は・・・)

 結局、しばらく検討するということで棚上げとなった。

 先延ばししたところで不具合が治まるわけでもなく、スタート直後のシフトアップのたびに神経質にならざるを得なかった。エンジンのピックアップが優れているのでギア抜けすると一気にエンジン音が高まり、周囲からは嫌悪の目を向けられる。マフラーを改造し、敢えて騒音を撒き散らすことに快感を覚えている暴走族と同一視されては堪らない。

 愛車のCB750fourは無改造だったが、実は“音”に関しては少しだけ申し訳なく思っている部分もあった。というのも当時の騒音規制が緩かったこともあり、CB750の排気音はけっこうな迫力だった。特に始動時は爆発音に近く、早朝の住宅街でエンジンをかけるのは気が引けた。 

 アイドリングにすれば気にならないレベルになったが、バイクとは無縁の人たちには騒音でしかなかったろう。幸い家族と“ご近所さん”の関係は良好だったので、辛うじて目を瞑ってくれていたのだと思う。

 始動に気を遣い、シフトアップに気を遣い・・・そのストレスは日々蓄積された。「雨の日は愛車が傷む」「真夏のヘルメットはサウナ状態の地獄」「真冬の厳しい寒さは骨身に染みる」・・・等々、いつからか乗らない理由を探している自分に気付いた。これには愕然とした。あれほど“バイク愛”を振りかざしていたくせに。

 酷い裏切りだと言われそうだが、決してCB750fourに対する愛情が薄れたのではない。マイナス要素が重なったせいで、対峙するのが苦痛になってしまったのだ。これは大好きな彼女に、ここは改めて欲しいと切望するのに似ている。他の部分が優秀すぎて、些細な欠点が気になってしまうというジレンマ。自分はそれをどこまで許容できるのか? 

 実は、この問い自体が残念な結末の前兆だという自覚はあった。かつて何度も経験した“別れ”の気配に他ならなかったからだ。

SL350は青春そのものだった」過去にそう書いたが、CB750fourもまた、人生の数ページを彩ってくれた忘れがたい存在だ。唯一、行動に理由や意味をタグ付けしてしまうという年相応の悪しき慣習のせいで、非日常性が薄められた事が悔やまれる。

 SL350の時は唐突に手放すことを決めた。決別ありきで、心の準備も手順も無視してしまった。いわば編集もされず、ラストシーンも割愛した映画のようなものだった。制作者であり主人公でもあったはずなのに、これほど不親切で無責任なことはないだろう。

 だから今度はきちんと物語を終わらせ、エンドロールも手を抜きたくなかった。登場人物(&車種)はもちろん、シチュエーションや流れていた曲、陰ながら手助けしてくれた人たち―――それらも可能な限り記録に留めたいと思った。且つ、観客としても“作品”を検証しながら心に刻み、最後のクレジットまで脳裏に焼き付ける事が責務なのだろう。

 たとえその余韻の拡がりと重さにたじろぎ、席を立つことができなくなったとしても。

 

雨を見たんだ

〈昭和の忘れもの〉モノ・コト編㊲

【CCR(クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル)】

 過日、記録映画『CREEDENCE CLEARWATER REVIVAL/TRAVELIN’ BAND』を観た。記録フィルムなので当たり前だが、スクリーンに映し出されていた4人のメンバー(ジョン・フォガティ、トム・フォガティ、ダグ・クリフォード、ステュ・クック)も背景も時代の空気そのままで、半世紀前の日々が蘇って涙が出そうになった。

 1972年10月のその日、一人のひねくれ者の高校生は朝から自室に籠っていた。

『CCR解散!』の報を耳にした瞬間、全身の力が抜けたような浮遊感に襲われ、気がつけば日が暮れるまで彼らの曲を大音量で流し続けていた。有りったけのLPとシングル盤を、次から次へとプレーヤーに乗せては針を落とす手順を繰り返した。まるで、その音が途切れたら自分の命が消えてしまうかのように。

 その2年前に解散した「ビートルズ」の偉業については語るまでもないが、その“絶対王者”に背を向けてCCRに傾倒したのは、単純に彼らの曲が自分の感性に合っていたからだ。そこに嘘はないが、ビートルズ至上主義を唱えていたのは洋楽好きだけでなく、ビジュアルを第一義と捉えている人間が少なからず存在することへの反発もあった。

 高校生の彼は、「主流・優勢といわれるモノには抵抗すべし」という何ら説得力のない信念に凝り固まっていた。もちろん、ただの天邪鬼でしかないことはわかっていた。しかし、そうやって抗い続けることしか彼にはできなかった。特筆すべき才能もなく、何処へ向かおうとしているのかさえわからず、今日を生きていく自信さえなかった彼には、否定形でしか外界と対峙する術がなかったのだ。 

 郷愁・回帰・夢想・自省―――CCRの曲を聴きながら、自分の中ではあらゆる思いが駆け巡っていた。過剰に反応する感性を制御できず、まして的確な言葉で他者に伝えることもできなかった愚か者は、拠り所としての楽曲に己の心情を託すしかなかった。

 CCRを「サザンロック」等の名でジャンル分けする向きもあるようだが、個人的にはどうでもいいと思っている。何より、J・フォガティのブルージーでパワフルな歌声は唯一無二である。彼自身は多彩な楽器を操ることができたが、自身の声こそが誰にも演奏できない“楽器”であり、シンプルな曲構成に複層的な魅力を与えていると言えるだろう。彼らの確かな演奏技術とジョンのヴォーカルの複合体、それがCCRサウンドである。

 代表曲の「雨を見たかい」は特に日本で大ヒットしたが、その歌詞については様々な解釈・隠喩がまことしやかに流布されていた。有名な話では、「晴れた日に降る雨」がベトナム戦争時に使用されたナパーム弾を象徴した“反戦”であるとの理由で、アメリカ国内で放送禁止になったこともあったという。

 J・フォガティ自身は反戦歌説を否定しているが、元々そうした詮索自体が無意味なことではなかったか。要は、聴衆は彼らの演奏を、ジョンの歌声を頭を空っぽにして全身で受け止めればいいのだ。理屈は要らない。

 素直にそう思えたのに・・・あらゆる事物に終わりがあるように、音楽性に優れたバンドも例外ではなかった。良くも悪くもJ・フォガティのワンマンバンドであったCCRは、ひとりの天才が率いるグループの常で、スタートした時点から崩壊へと向かう運命だった。

 前年にトム・フォガティが脱退し、残ったメンバー3人による日本公演(1972年2月・武道館)が行なわれた時、すでに内部崩壊はギリギリまで進行していた。一部では暗黙の了解だったかもしれないが、誰もがその話題に触れることを避けていた。

 しかし、運命の時はやってきた。CCRの実質的な活動は僅か4年ほどだったが、最終的に彼らは世界的なビッグバンドに上り詰めた。メンバーにとって、あるいはファンにとってそれまでの期間が長かったのか短かったのか、一概に語ることはできない。

 いずれにせよ彼らが解散してしまったという現実は、明日からの希望を失ったひねくれ者にとって十分過ぎる悲劇だった。一方で、J・フォガティが「雨を見たかい」の歌詞に込めた“真情”を読み解いていたファンは、己の理知を悔やみつつ呑み込むしかなかったのかもしれない。晴れた日の雨・・・すなわち、黄金期の直中だったバンドの終焉が近いことを予告していたのだと。

 ♬ 晴れた日にも雨は降るんだ

   君はそんな雨を見たかい? 

 あの頃そう問われ、未熟な自身に照らして思うことはあった。

 古いメモが残っていた。半世紀前のものだ。気恥ずかしいが、アンサーソング風の独白を敢えてそのまま記しておくことにする。

  ありふれた日々だけど

  挫折や悲しみだってあったよ

  それよりも突然の雨は最悪さ

  ずぶ濡れになるしかないから 

  晴れた空から降り注ぐ      

  そんな雨を僕は見たんだ

魔法の言葉

〈昭和の忘れもの〉クルマ編⑳

トヨタ スプリンター1200SL】

 

 

 トヨタの「カローラ」は最多販売車種としてギネスにも認定されたロングセラーカーで、「スプリンター」は同車から派生した姉妹(兄弟?)車である。

 販売期間が長いこともあり、初代カローラ発売の1966年以降、スプリンターを含めて5台ほどと関わりがあった。今回はそれらを代表して、幼馴染が乗っていた2代目のスプリンター1200SLを取り上げることにした。

 小・中と同じ学校に通っていたオカノ君(仮名)とは小学時代は野球、中学では共にサッカー部で汗を流した。高校は別だったが、その頃はバイクが共通項だった。その彼の名前がこれまでバイク編になぜ登場しなかったかというと、モリタ君(CB350・バイク編⑪)と車種が被っていたからだ。オカノ君なら他にも話題に事欠かないので、いずれ別の機会にと先送りにしてきた次第。

 ところが、いざエピソードを開陳しようとして手が止まった。確かに話題は豊富なのだが、諸々差し障りがありそうだと気付いたのだ。法的にはともかく、関係者の体面とか名誉の問題である。したがって、以下に記すのは文字に起こして差し支えない範囲の話である。

 このスプリンターSLの所有者は彼の父親だったが、たまの休日にチョイ乗りする程度だったので、実質的にはオカノ君の“愛車”といえた。父親の条件はガソリンを満タンにして戻すこと、それだけだった。

 彼は最初こそ傷つけないようにと気を遣っていたが、日毎に大胆になり、いつの間にか勝手に改造するようになった。クーペスタイルとはいえ、ザ・ファミリーカーのスプリンターは血気盛んな若者には物足りなかったのだろう。手始めにシートカバーを替え、次はフェンダーミラー、そしてマフラー、タイヤとサスペンションとエスカレートしていった。

 彼に付き合って何度か同乗し、泊まりがけで旅行したこともあったが、はっきり言って乗り心地は最悪だった。車高を下げているせいで、道路沿いの店の駐車場に乗り入れるたびに車体の下部がガリガリと派手な音をたてる有様だったのだ。

 クルマに求めるものがすれ違っていたこともあったが、諸事情で次第に彼とは疎遠になった。ただ、お互いの家は100メートル程の距離なので、それとなく近況は伝わってきた。

 聞いたところでは、彼は毎週末の夜中にドライブに出掛けているとか。その「ドライブ」がどういう類いのものかは想像に難くないが、すでに社会人になっていた彼の中にいったい何が起きていたのだろうか。あるいは社会人故のフラストレーションの発露だったのか。

 そしてある日。極限まで車高を下げた、いわゆる“シャコタン”スプリンターは、郊外のとある工事中の道路の段差に乗り上げ、フロントフェンダーとエンジンのオイルパンを破損した。〈段差あり徐行〉の表示板があったにもかかわらず、けっこうな速度で走り抜けようとしたらしい。幸い、ドライバー本人は全くの無傷だったようだ。

 点検の結果、エンジン以外にもフロント部分(主に足回り)の広範囲にダメージが確認され、スプリンターSLは廃車せざるを得なくなった・・・とか。

 そんな風の便りも忘れかけた頃、突然オカノ君から電話があった。

クラウンを買ったんだ。近々ドライブに行かないか?」

 さすがにクラウン(“いつかはクラウン”でお馴染みのトヨタの高級車)を改造するとは思えなかったが、スプリンターの件でモヤモヤが晴れず、しばし返事を躊躇った。

 はて、自分は何に対して憤っているのだろう? 最悪の乗り心地だったクルマに対してか? 愛車に無謀な改造を加えた彼自身に対してか? だが彼が“愛車”に手を加え、誰と何処を走ろうがそれは彼の自由だ。自分とクルマとの関わり方や嗜好が違うからといって、彼自身を非難することは筋違いだろう。

 自分に正直で、好きなことに突き進む―――彼の遊び心は錆び付いていない。いささか子供っぽくて、もちろん純真な少年の心などと美化するつもりは毛頭無いが、未だに奔放な感性を持ち続けている彼を羨んでいたのかもしれない。

「付き合うよ。廃車になる前に」

 思いもかけずそう答えていた。

 直前に“幼馴染”という言葉が過ぎった気がした。洟垂れ小僧同士が大人への反抗心や無分別な行動を共有した時間は、相互信頼という記憶として深く刻まれていたのだろう。理屈抜きで、それまでの些細な疑念や不満は瞬時に霧散してしまった。

(ま、いっか)

 さしずめ、「幼馴染」は魔法の言葉なのかもしれない。

 

ほろ苦き味・・・夏

〈昭和の忘れもの〉モノ・コト編㊱

【レスカ(レモンスカッシュ)】

 無性にレモンスカッシュが飲みたくなった。

 コンビニへ行けばその類いの商品が並んでいるが、ふと浮かんだのはかつて喫茶店で飲んだ、あのビジュアルと味だった。悲しいかな、近隣に提供している店はない。

 仕方なく、有り物(レモン・炭酸水・ハチミツ)で何とか作ってみようと奮闘したものの、当然ながら“あの味”は再現できなかった。見た目もお粗末としか言いようがない。

 初めてレモンスカッシュに出会ったのは中学生になってからだ。大人に連れられて行ったレストランだった。ソーダ水の甘さに慣らされていた少年には、レモンの酸味と炭酸の刺激が新鮮で、初めてコーラを飲んだときの感覚を思い出した。

 高校生になって喫茶店に出入りするようになると、夏の初めにはけっこうな頻度で注文していたのだが、いつの間にか仲間と一緒にアイスコーヒーを飲んでいる自分がいた。炭酸の刺激がいかにも夏らしいというだけで、レモンスカッシュに特別な思い入れはなかったのだ。その時までは。

 夏の日盛りから逃れ、喫茶店でいつものように仲間と他愛のない話をしていると、大学生らしいカップルがやって来て、隣のテーブルに着くなり男がオーダーを告げた。

「レスカふたつ」

 そのふたりが美男美女だったせいなのか、「レスカ」の響きが妙に格好良くて、特別な飲み物のように思えたのだった。以来、いつか自分も同じようにオーダーしてみたいと憧れていた。

 しかし、気恥ずかしさもあって友人・仲間の前では実行できないまま季節は廻った。

 そうして、ようやく“その時”がやってきた。隣のクラスで気になっていた女子を、やっとのことで“お茶”に誘うことができたのだ。

 席に着き、さりげなく彼女の注文を確認する。そっと息を吐き、緊張しつつその時を待った。ウエイトレスの女性が近づいてくる。呪文のように頭の中で唱える。

(レスカ、レスカ、レスカ・・・)

「ご注文は?」

「オレンジフロートとレスカをください」(言えた!)

 途端にどっと疲れに襲われた。

 飲み物が届いた。お互いに黙ったままストローで液体を吸う。

 この時、自分が大きな過ちを犯していることに気付いていなかった。「レスカ」の3文字に神経を集中しすぎたせいで、頭の中は真っ白だった。何を話せば良いのかもわからない。無事注文できた=ミッション終了という気分になっていたのだ。肝心なのはこの先、お互いを知り合うことだったのに。

 結果は散々なものだった。会話は続かず、通夜のような重苦しさだけが残った。カルピスは初恋の味―――そんなCMがあったが、自分にとってレモンスカッシュは失恋の味となったのだ。いや、実際には始まってもいなかったけれど。

 そんな経緯で、レモンの皮の苦みそのもののような想い出を封印すべく、その後長きに亘ってレモンスカッシュを口にすることはなかった。

 年月が流れ、行きつけだった喫茶店が次々と姿を消していくのを目の当たりにして、一抹の懸念を抱いた。「レスカ」はもはや“絶滅危惧種”として、その言葉と共にメニューからも消えてしまうのだろうかと。 

 ところがいろいろ調べてみると、都市部の長年営業している喫茶店では「レモンスカッシュ」がしっかりメニューに残っていた。中には敢えて「レスカ」と表記している店もあるという。そこに“昭和レトロ”とやらが影響しているかは知らないが、安堵と同時に肩透かしを食った気分になった。

 夏が来るたびに、実はあの時のレモンの酸味と炭酸の刺激、そして戒めのようなほろ苦さを思い出していた。つまらない感傷や意地はもう捨てる潮時だろう。己の行動範囲の狭さ故に要らぬ危機感を抱いたことを反省しつつ、この夏こそは、ふらりと降りた駅前の年季の入った喫茶店を訪れ、誰憚ることなく高らかに注文しよう。

「レスカを!」