syouwanowasuremono’s blog

懐かしい旧車・モノ・コトにまつわる雑感

選ばなかった道

〈昭和の忘れもの〉バイク番外編

【バイク雑誌『ロードライダー』(立風書房)】

 バイクブームが最盛期を迎えた1982年の3月、雑誌『ロードライダー』(立風書房)は創刊した。日本の2輪メーカーの絶頂期であり、関連雑誌も花盛りで、各誌が特色を競っていた。 *蔵書が散逸してしまい、画像は創刊4号

 そのころ、とある編集者に声を掛けられた。

「バイク雑誌の編集で人を探してるんだけど?」

 人付き合いが苦手で、それゆえ人脈と呼べるようなものはほとんど持ち合わせていないが、辛うじて出版業界には数人の“知人”がいた。彼はその中の一人で、編集に興味があると以前に話したことがあって、それを覚えていて誘ってくれたのだ。実に律儀な話だが、たまたま当時バイクに乗っていることも知っていたので、半分は社交辞令だったのだろう。

 その出版社ではすでにクルマ雑誌を発行しており、バイク雑誌は遅ればせながらの参入で、それが『ロードライダー』誌だった。当然新規採用はしたのだが、クルマ雑誌のほうでも人手が足りなくなって追加採用の必要に迫られたとのこと。ただ、即戦力が必要なのだと力説された。

 自分としては身に余る話だったが、2輪・4輪雑誌編集のハードワークも耳にしていた。専属のライダー・ドライバーを擁する老舗専門誌もあったが、中小の出版社では編集者自ら試乗することが普通だ。むろん、そうでなくては実のある記事など書けないだろう。もとより、腕に自信のあるセミプロ集団でもあった。

 各メーカーの新車種に触れられるのは魅力だが、ロケはかなりハードだという。各誌が競合するため、新車(広報車)の試乗は順番制で分刻み。それでいて、レポートは文章の巧拙よりも詳細かつ正確であることが求められる。特に数値に関しては細心の注意を払う必要があった。コンマ1の誤記も許されない。他社のマシンよりも0.1秒でも速く、0.1馬力でも高出力であることを謳うメーカーの広報活動の要であり、何より雑誌の信用にかかわるからだ。

 しかも、新車の特徴を見極めたうえで、メーカーと読者の双方に気を配る必要があった。広報から渡される美辞麗句の並んだ資料を鵜吞みにせず、公正なユーザー目線も忘れるわけにはいかないのだ。自分はそんな器用さとは無縁で、とても自信がなかった。

 結局、返事を保留している間に話は立ち消えとなった。当の編集者もすでに退社したと聞いた。激務に耐えかねたのか新たな道を見出したのかは本人のみぞ知るだが、その進退も含め、自分の与り知らないところで事態が動いていたことで、何だか梯子を外されたような複雑な思いだった。とはいえ、自分が一歩を踏み出すことを躊躇った結果なので、恨み言はお門違いというものだ。それでも、店頭に並んだ最新号を目にする度にちょっぴり未練を覚えたことも否定しない。

『ロードライダー』は後発誌ということで、誌面にチャレンジ精神が溢れていたように思う。他誌が取り上げない話題や、ライトな記事も幅広く扱っていた(要するにてんこ盛り?)。といっても、これは創刊からしばらくの間のことだ。おそらく新しい編集者が他誌に歩を合わせることなく、自由な発想を誌面に反映できたからだろう。それが許されたのも2輪業界の勢いと、ユーザーの「バイクライフを自由に楽しみたい」という情熱のおかげだったと思われる。尤も、それは他誌にも言えることで、互いに得意分野を追求することで内容も多岐に亘って磨かれていったのだろう。

 だが、狂騒ともいえたバイクブームも次第に沈静化し、直近の国内2輪車生産台数は往時の10分の1となった。ただ、この数字には先ごろの50㏄バイクの生産終了が反映されており、251㏄以上の所謂“趣味としての2輪車”の販売台数はここ数年安定しているとのことだ。女性ライダーの増加とともに、かつてのライダーが懐のゆとりを得た“シルバーライダー”として2輪に帰ってきていることも影響しているらしい。また意外にも、免許取得の総人数も減少していないという。

 そんな話を聞くと妙に安心してしまいそうだが、広告媒体の変化という別の潮流によって雑誌業界は安閑としていられない状況だ。バイクに限らず、広告収入によって多くを支えられている雑誌にとって、スポンサーの紙媒体離れは死活問題である。

 こうした苦しい状況においても生き抜いているバイク雑誌もあるが、『ロードライダー』は2019年に休刊した。創刊から一貫して読んでいたわけではないので、内容と休刊に至った理由との因果関係については不明だ。だが外野が勝手に推測するに、発行元が次々と変わり、経営母体に翻弄されたことも無関係ではない気がする。

 ともあれ昨今の出版界の現状を憂いてはいるが、今回はそうした大局観を語るつもりはない。物置の段ボール箱に古い雑誌を見つけ、一般読者よりもほんの僅かだけ接点が近かったことを懐かしく思い出したに過ぎないのだ。だから、今になって素直に言えることがある。バイクは趣味として無心で楽しむものであって、仕事にしなくてよかったと。

 願わくば、これが負け惜しみに聞こえなければいいのだが。

ミスキック

〈昭和の忘れもの〉クルマ編㉚

【トヨタ カローラ1100(初代)】

 FIFAワールドカップ2026は、スペインの優勝で幕を閉じた。レギュレーション変更や運営面で多くの問題を抱えながらも、世界中のサッカーファンは熱狂の一ヶ月を過ごした。

 今では専らテレビ画面越しの観客の一人に過ぎないが、中学時代は部活でサッカーをやっていた。母校は学業、部活いずれも可もなく不可もないという平凡を絵に描いたような公立校で、サッカー部も例に漏れず、地区大会では勝ち上がるものの、県大会では1回戦敗退を繰り返すレベルだった。

 そのチームの中でも自分はサブのメンバーで、たいてい前後半どちらかの交代要員だった。ただし現在でいうところの「ジョーカー」などではなく、同じポジションで実力もほとんど変わらないA君と交互にスタメンに入るのがルーティンだったのだ。戦術というほどの意味もなく、公平に出場機会を与えるという、監督兼コーチであるB先生の温情のようなものだ。

 2年生の時も何とか地区予選を勝ち抜いたが、チーム内には「どうせ県大会では勝てないさ」と、早々に弱音を吐く者がいた。だが、そんなチームメイトを責めることはできなかった。自分は別の理由で気が重かったからだ。

 大会の競技場へは電車とバスを乗り継いで1時間半ほどかかるのだが、恥ずかしながら乗り物に弱く、特にバスは苦手で30分と乗っていられなかった。1年の時は応援要員に過ぎなかったのでチームに影響はなかったが、今回はそうはいかない。限定的とはいえ出場機会が与えられている。後輩の前で無様な姿は見せたくない。乗り物酔いで試合に出られないなんて、あまりにカッコ悪い。

 当日。思い悩んでいると、監督に呼ばれた。

「〇〇、俺は車に備品を積んで一足早く出る。お前も一緒に来て手伝え」

 駐車場までついていくと、白いカローラ1100が停まっていた。高まり始めた日本のモータリゼーションを牽引すべく、トヨタが社を挙げて開発したファミリー向け大衆車だ。他社に先んじてプラス100㏄のエンジンを搭載して話題となった、現在のカローラシリーズの出発点となった名車といえるだろう。

 早速、予備のボールや給水タンク、救急箱等を後部座席とトランクに積み込み、自分は助手席に収まった。相変わらずバスはダメだったが、最近ようやく乗用車、それも助手席なら何とかドライブにも耐えられようになっていた。もちろんそんなことを監督に話しはしなかったが、1年前の“惨状”を覚えていて気遣ってくれたのだろう。普段は厳しい指導で有名だったが、生徒思い(?)の一面もあったのだ。

 無事に会場に到着して荷物を降ろし終わった頃、チームメイトが合流した。ユニフォームに着替えてウォームアップを済ませると、ほどなく自分たちの試合開始の時間になった。例によってA君が先発で、自分は緊張しつつ戦況を眺めていた。

 無欲が功を奏したのか我がチームは善戦し、前半を1-1で終えた。後半はいよいよ自分の出番だ。やるべきことは決まっている。パスを出し、スペースに走ってパスを受け、ボールをフォワードに繋ぐ。相手のボールをカットして何としても味方に渡す・・・特別な武器を持たない自分にできることは、それらを愚直に繰り返すことだった。

 残り時間5分。奇跡のような場面が訪れた。味方に送ったボールが相手ディフェンスに当たり、そのこぼれ球が自分の目の前に転がってきたのだ。ゴールまで20mほどだった。味方の姿が視界の隅に入ったが、シュートコースが空いていたのでノートラップで右足を振り抜いた。しかし突然の好機に力んでしまい、ジャストミートしなかった。ボールは弱々しく弧を描いてゴールキーパーの正面に飛び、がっちりキャッチされた。

(ミスった)

 その一瞬を突かれた。キーパーが蹴ったロングボールは前線のミッドフィルダーにつながり、巧みなドリブルでゴールエリアまで運ばれた。味方ディフェンスがタックルに行ったが寸前にラストパスを通され、逆サイドに走り込んできたフォワードにゴールを決められた。勝負ありだった。

 気持ちを切り替える間もなく無情のホイッスルが鳴り、結局1-2で敗れた。接戦だっただけに、チームメイトの落胆ぶりは痛々しいほどだった。誰も口にはしないが、全員の目が自分に向けられているように感じた。

『〇〇がシュートを決めていれば・・・』

『あのミスキックが無ければ・・・』

 功を焦ってシュートを選択したのは間違いだったのか。味方フォワードにパスすべきだったのだろうか。後悔は尽きない。仲間の顔をまともに見ることができず、備品を片付けて逃げるように車に運び込んだ。

 帰りの車内では俯いたまま何も言えなかった。B先生も無言だった。叱責も慰めも意味が無いと知っていたのだろう。どちらにしても、自分にとっては人生最悪の日となった。

 失敗は誰にでもある。しかし他人には理解できない、本人にとっては一生消せない負い目というものも存在する。それがちっぽけな意地の裏返しだとしても、そう自覚することが贖いだと思っていたのかもしれない。

 こうした経緯で、プレーヤーとしてのサッカーとの関わりは中学時代で終えた。だからといってサッカーそのものに対する気持ちが冷めたわけではない。観戦側に回っても、一流選手のプレーの凄さに感嘆できる程度の熱は残っていた。一方で側杖を食ったのが、部活・B先生つながりの「カローラ」だ。初代のみならず、3代目くらいまでは街中で見かけるたびに落ち着かない気分になった。クルマには何の罪もない。後年マイカーの候補に「カローラ」の名前が挙がることがなかったのも、自己嫌悪に打ちのめされたあの日の記憶に重なるからに他ならない。

 全く理不尽な話である。何ができるわけではないが、せめてトヨタの関係者の方々に謝罪しようと思う。

「ごめんなさい」

冒険心とDIY

〈昭和の忘れもの〉モノ・コト編㊾

【肥後守(ひごのかみ)】

    上・肥後守    下・ビクトリノックス     

 木立をかき分けて薄闇を進む少年は、ポケットの中の刃物をしっかりと握りしめていた…と言っても、ニュースを賑わす「トクリュウ」一味の話ではない。

 昭和の中頃、原っぱや裏山を駆け巡っていたわんぱく少年にとって、『肥後守』ひごのかみ)は大いに重宝された。肥後守というのは、〈永尾かね駒製作所〉が商標登録をしている簡易な折り畳み式ナイフのことだ。鉛筆削りという名目で学校では文具扱いだったが、どちらかといえば活躍の場は主に教室の外だった。

 鉛筆削りとしては後発の『ボンナイフ』のほうが安全性も高く、女子でも扱い易かったが、野外では断然肥後守が頼りになった。草木が茂った山の中では、たとえ小さくても1本のナイフがどれだけ心強かったことか。少年の冒険心はその存在によって支えられていたと言っても過言ではない。まさに“庇護の神”(?)だったのだ。

 アウトドアライフとかサバイバルといった言葉を使うことはなかったが、少年たちの日常は危険と好奇心、自在な発想力に満ちていた。そんな日々の中では、小刀の他にもあれこれと“道具”に対する欲求が生まれるのは当然だった。当時でも複数の機能を備えた十徳ナイフと呼ぶものが存在したが、実際にはどれも中途半端で、人物評で言うところの器用貧乏という感覚が払拭できなかった。

 結局、単機能の良品を揃えた方がいいという結論に落ち着いたのだが、その思いが強かったせいか、後年人気となった『ビクトリノックス』(スイスで創業したマルチツールブランド。代表作のアーミーナイフは世界的に有名)に手が伸びることもなかった。

 そのくせ、肝心の肥後守はいつの間にか紛失し、代わりに道具箱の中には切り出しナイフやカッター、ドライバーやスパナといった工具が増えていった。思えば、クルマのカスタムに熱くなったのも、少年時代の記憶や体験の延長だったのだろう。

 今では様々な電動工具も加わり、狭小な庭の物置には結構な数と種類の工具・道具類がひしめいている。それらを愛でながらクルマのタイヤ交換をはじめ、ちょっとした家周りの補修や部屋の改修、古くなった器具類の交換や修理に熱中して食事を忘れることもしばしばだ。肉体の衰えはさておき、手先と知恵を駆使してモノ作りに没頭し、世間の憂さもしばし忘れて無心になれる時間は宝物だ―――そう嘯くほど、すっかりDIY好きのジイさんになっていたというわけだ。ただし、“趣味と実益”という慣用句で括ってほしくはないのだ。

 裏山から切り出した小枝や篠竹、それらと針金やタコ糸を組み合わせて作った遊び道具の数々・・・原点を辿ればあの日、ポケットの中で握りしめていた小刀に行き着く。この単純な思考と堂々巡りの狭間には、常に感傷と歯痒さが漂っている。確かに幼い日の冒険心や想像力(創造力)には及ぶべくもないが、言い古された「少年の心」というやつは、絶えなかった生傷の痛みと共にいつまでも消えないようだ。

 理屈はともかく、明日の計画は決まっている。庭に自作した物干し場の支柱の塗り直しだ。経年劣化ですっかり色褪せてしまったので、いずれ塗り直そうと考えていたところだ。木目を生かしたステイン仕上げもいいが、思い切ってスカイブルーの塗料で塗ってしまおうか。

 そんなことを考えながら嬉々として物置の中を漁っている姿は、端からどう見えるのだろう? 遊びに夢中の少年の後姿ーーーなわけはないか。

 

 


 

後方視界良好

〈昭和の忘れもの〉クルマ番外編

【ドアミラー黎明期の後付けミラー】

 現在では当たり前のドアミラーだが、日産「パルサー・エクサ」(1983)が登場するまで、国産車のサイドミラーはフロントフェンダー上にあった。

 普通免許が取得できる年齢になり、一部の外国車に装着されていたドアミラーを間近で目にした時、無条件にかっこいいと思ったものだ。同じ思いを抱いた若いカーマニアの声を聞きつけたのか、マニアックなカーショップでは汎用ドアミラー(後付けミラー)が売られていた。大人のユーザーは見向きもしなかったが、金はないけれど何とか自分好みにカスタムしたいと願っていたクルマ好きの間では一時期流行った。

 この初期のミラーは、ドアフレームを”コの字”型の金具で挟んでボルト止めするという単純な作りで、旧車にありがちだった四角い断面のドア枠にのみ取付け可能な代物だった。しかも見栄えやボディーとの干渉など考慮されておらず、ウェザーストリップの性能頼みで、雨の日には隙間から雨水が車内に侵入することも珍しくなかった。

 それでも誰も文句を言わず、自己責任と割り切っていた。なぜなら、当時はまだドアミラーそのものが認可されていなかったからだ。すなわち、フェンダーミラーを取外してドアミラーを装着した時点で整備不良車両として取り締まりの対象とされたのだ。

 それでも誘惑に勝てず、粗悪な後付けドアミラーに換装する人間は少なからずいたのだ(かく言う自分もその一人だった)。クルマ(ウェザーストリップ&ボディー)へのダメージや整備不良の反則金は総べて自己責任であり、その対価は『俺の愛車は他人とは違うんだぜ』という自己満足だけだったにもかかわらず。

 2台目となった愛車は1.4Lの大衆車とはいえ、新車だった。この時点でもまだドアミラーは認可されておらず、相変わらずフェンダーには2本の“角”が生えていた。前車でドアミラーの見易さを体験してしまったので、この逆行は耐えられなかった。

 しかし、ドア枠の断面形状が複雑化していたので前車からのミラー移設は適わなかった。そこでショップを巡り、“BMW御用達”との触れ込みのミラーを見つけた。鏡面にブルーの防眩加工が施され、見栄えも気に入ったので高額だったが購入を決めた。だが、価格以上に大きな問題があった。このミラーはドアに専用のアンカー(金属製のブロック)を固定してそこにミラー本体を被せるという構造で、ドアパネルにアンカーをビス止めする必要があるという。

 新車購入から僅か1週間。車体のどこにも掠り傷一つないのに、ドアの外板にドリルで穴をあけるというのだ。確かに装着後の見栄えは美しく、後付け感はほとんどない。とはいえ、さすがに悩んだ。前車に取付けた汎用ミラーは、金具のボルトを緩めれば取外しが可能だった。ドア枠に多少の痕跡が残っても、何とか修復可能な範囲といえた。しかし、ドアパネルに穴をあけるとなると大事(おおごと)だ。人間でいえば、擦り傷と刺し傷くらいの差だ。傷痕は比較にならない。

 それでも、決断した。

「取付けお願いします」

 ただし、ドライバー側だけだった。多分に懐具合の問題もあったが、実は前車でも助手席側は換装を断念した経緯があった。その汎用ミラーは左右どちらのドアにも流用できたので、試しに助手席側に取付けて走ってみて良くわかった。フェンダーミラーは僅かな視線移動で左右を確認できるが、ドアミラーはそうはいかない。ドライバー側はミラーが近づくので視認性が高まるが、助手席側はある程度首を振らないと確認できない。この時、僅か0.5~1秒とはいえ前方から視線を外すことになり、その恐怖感はかなりのものだった。

 この件がトラウマとなり、慣れの問題だと言い聞かせてはみたものの、ひとまず今はやめておこう。と相成った。見た目に拘ってミラーの換装を決めたのに、左右非対称で中途半端という無様な結果を受け入れてしまった。これは竜頭蛇尾とでもいうのだろうか。

 新車のボディーにドリルで穴をあけるという“蛮行”を許した精神状態、決断力はどこから来たのだろう。美学の変遷の要因は何だったのか―――そんな問いかけに行き着く文脈になってしまったが、誤りに気付いた。

 後悔や反省を綴りたかったのではないのだ。片側だけだったけれど、ドアミラーに換装した直後のファーストインプレッションの鮮烈、思わず漏らした一言。純粋にそれだけを記したかったのだ。

「後方視界良好!」

 

約束の拍手

〈昭和の忘れもの〉モノ・コト編㊽

【オリベッティー バレンタイン(タイプライター)】

 

 英語と聞いただけで腰が引けてしまう自分にとって、所謂バイリンガルという人たちは心から尊敬する対象だ。

 殊にワープロの登場など予想もできなかった頃は、英語に堪能な人間を二重に羨ましく思っていた。すなわち英語を操ることができ、しかも(活字で)記述する手段として英文タイプライターが存在したからだ。悪筆がコンプレックスだった自分からすれば、まさに夢の機械だった。

 英文は、アルファベット26文字といくつかの記号さえあれば文章の記述が可能だ。そのためタイプライターの発想は古く、実に世紀を跨いで進歩し続けた。中でも1969年にオリベッティー社(伊)が発売した赤いボディーの『バレンタイン』は、持ち運びできるお洒落なタイプライターとして人気となった。“ポータブル”を象徴する「赤いバケツ」のキャッチコピーで好評を博したデザインは、エットーレ・ソットサスによるもので、ニューヨーク近代美術館(MoMA)の永久収蔵品となっている。

 一方で、漢字を有する日本語はその膨大な文字数がネックとなり、当初はカナタイプがせいぜいだった。後に和文(邦文)タイプライターも登場したが、要は活版印刷の簡易版というべきもので、バケット(活字を収めた箱)から1字ずつピックアップして印字しなければならなかった。しかも持ち運びは不可能で、活躍の場は主に役所関連だったと聞く。

 昭和の後半、比較的小型の『パンライター』という商品が存在した記憶があるが、それも高額で活字数にも制限があった。どちらにせよ本来なら自分には縁のないはずだったが、唐突に後輩の女子に尋ねられた。

「事務機のお店に知り合いがいるとか。タイプライターも扱っていますか?」

 彼女はその春大学生になったばかりの、英文科の1年生だった。どこで聞きつけたのか、人脈とは縁遠い自分だが、たまたまその方面に伝手があったのだ。受講で必要だが、高額なので少しでも安く購入できる術はないかと、彼女なりに手を尽くしていたようだ。英文科と聞いただけで身構えてしまっていたが、頼られて悪い気はしない。しかも、出資元は親御さんだとしても、その負担を僅かでも減らせればと気遣う辺りは健気で、経済観念も含めて好感が持てた。

 そんなわけで、都内にあるその店まで付き合うことになった。懇意にしている店長に事情を話すと、特別に“社員割引”で販売してくれるという。

 数機種の説明に真剣に耳を傾けること1時間余り。彼女が選んだのはオリベッティー社の『バレンタイン』だった。失礼ながら、本人とは関係なく、その赤いタイプライターを持ち歩く姿は知的でかっこいいと想像できた。持ち運べるとはいえ現代の感覚ではそれなりの大きさで、“お荷物”の感は拭えないが、当時はお洒落で目立つアイテムだった。

 後日、彼女からお礼の手紙を貰ったのだが、それが便箋に手書きしたありきたりのものだったので寂しい気がした。誤解の無いよう断っておくが、何かしらの進展を期待していたという意味ではない。手書きが礼儀だと思ったのだろうが、シャレ・遊び心でタイプした英文でも送ってくれたら拍手で応えようと決めていたからだ。尤も、向こうにしてみれば、宛先人に英語力が無いことを見抜いていただけかもしれない。

 以来連絡を取り合うこともなく、彼女のこともタイプライターの件も忘れた頃、ようやく手が届く価格のワープロが発売された。ただし性能はお粗末で、その言い訳として“ポータブル”を謳っているような代物だった。それでも悪筆の、意志の弱い誰かさんは飛びつかずにはいられなかった。(結局、3台のワープロを買い替えることになったのだが)

 ワープロのキーボードに触れるようになって、タイプライターにまつわる記憶が蘇った。そこで初めて意識したのは、タイプライターの『カチャカチャ』『パチッパチッ』という(打鍵・印字に伴う)独特の音である。現代のオフィスでは騒音になりかねないが、当時の会社やキャンパスではリズミカルな、活気に満ちた生活音だった。

 騒音のレベルが経済活動のバロメーターというのも皮肉な話だが、かつてタイピスト、あるいはキーパンチャーのスキルがもてはやされた時代を思い起こせば納得がいく。それに引き換え、昨今のキーボードの軽いタッチや抑えられた打音は、職場環境に優しいというよりも何かに遠慮しているかのようだ。もしくは、主張しすぎない奥ゆかしさか。

  ふいに初々しい女子大生の姿が脳裏を過った。

(彼女なら現在の風潮をどう思うだろうか?)

 記憶の彼方の彼女は何も答えない。けれど、これまでの奮闘ぶりは想像できた。年を経てもその生真面目さや一途さは健在で、機器がパソコンに替っても、タイプライター仕込みの華麗なタイピングを披露して周囲を瞠目させたに違いない。

 だが、ほのぼのした思い出に浸る間もなく、幻影の向こうから1枚の紙片を突きつけられた。

keep challenging yourself

(挑戦し続けましょう!)の意か? 

 反射的に視線が泳いでしまった。

 ・・・それでも拍手を送ろう、約束通り。

バイカーの系譜

〈昭和の忘れもの〉バイク編㉙

【カワサキ 650-W1SA】

 かつてバイク仲間のNが乗っていたのがカワサキ・650-W1Sだ。ダブワンの愛称で親しまれ、オールドバイクファンにとっては垂涎の的だった。

 その伝統的なバイクを現代風にモディファイし、1971年に登場したのが650-W1SA(カタログ表記はどちらもW1スペシャル)である。このマイナーチェンジでは多岐に亘って細かく手が入れられたが、どれをとっても技術陣の誠意が感じられるものであった。最大のトピックは、先代が伝統を踏襲して左ブレーキ・右ギアチェンジペダルだったのに対し、一般的な左ギア・右ブレーキペダルとなったことだ。この改良により、ダブワンは格段に乗り易いバイクとなったのだ。

 実は、市場はすでにナナハン時代に移行しつつあり、カワサキも新機種の投入を控えていた。それが後年の名車・750RS、いわゆるZ2(ゼッツー)であった。650-W1SAはいわば750RS発売までの繋ぎとして世に出したのだが、関係者にとっては嬉しい誤算というべきか、ファン層が広がって一時的ながらダブワンブームが再燃したのだった。

 このバイクに、というか乗り手に出会ったのは80年代初頭、自分もCB750fourを所有していた頃だ。社会人の仲間入りをしたものの、まだ浮草のような日常を送っていた。今だから言えるが、本来バイク通勤は禁じられていたにもかかわらず、度々その禁を破っては悦に入るという、相変わらずのアウトローを演じていた。コンプライアンス意識が希薄な時代とはいえ、若気の至りと俯くしかない。

 折りしも新年度の異動シーズンで、その日は新しい係長が着任することになっていた。朝礼で紹介されたのは、厳つい顔立ちでがっしりした体躯の、建築現場の監督が似合いそうな人物だった。

 数日後の昼時、そのU係長に昼食を一緒にと声を掛けられた。行きつけの食堂へ案内すると、席に着くなり言われた。

「〇〇君はナナハンに乗ってるんだって?」

 誰かが進言したらしい。さすがに唐突だったので、曖昧に言葉を濁した。若かったせいもあるが、いきなり自分の世界に踏み込まれたようで拒絶反応が前面に出てしまったのだ。もとより、上司と仕事以外の話をしたいとは思わなかったが。

 1週間ほど過ぎた快晴の朝。駐輪場にナナハンを停めると、キャブトンマフラーの重低音が背後に迫った。エンジ色のタンクに黒のラインが入ったダブワンが数台の自転車を挟んで停まり、がっしりした体格の人物が車体の横に降り立った。なんと、それはU氏だった。

「私も長年オートバイに乗ってるんだよ」

 以来、同好の士を得たとばかりに距離を詰めてくるのだが、こちらにその気はなかった。旅先で出会ったライダー相手であれば、歳の差など関係なくバイク談義に興じることもできるのだが、仕事絡みとなるとそうはいかない。公私の区別も含め、立場の忖度といったバイアスが掛かってしまうからだ。

 その日も、こちらの当惑には無頓着で話が止まる気配はなかった。いい加減辟易していると、1枚の写真を見せられた。そこには、庭先に停めたダブワンのシートに跨って、満面の笑顔を見せている幼い女の子が写っていた。後ろに乗せてツーリングにも行くんだよ、そう付け加えたU氏は父親の顔をしていた

 他人の家族のスナップなど普段なら見る気にもならないが、この1枚は違った。買い物の足にも愛娘を乗せたツーリングにも、このダブワンはごく自然に寄り添ってきたに違いない―――そう思わせる、得も言われぬ空気感・幸福感が漂っていた。

 生活・家族の中に違和感なく溶け込み、かつ存在感を放つバイクの持ち主の心情。それは、バイクとは1対1で対峙するものと信じてきた自分の感覚とは相容れないものだ。あるいは年齢を重ね、家庭を持てば理解できるものなのだろうか。

 答えを出すことはできなかったが、便宜的に「ライダー」と「バイカー」との違いだと己を納得させた。あまりに感覚的で定義も曖昧ではあったが。

 あれから半世紀近く経つが、自分にはバイク愛を引き継ぐ人間がいない。一方、U氏の娘さんや孫にはバイカーのDNAがしっかり引き継がれていることだろう。悔しいが、不思議とその確信だけはあるのだ。なぜか、幼い女の子の笑顔が目の奥に焼き付いて今でも消えないからだ。

 因みに、バイク通勤の件はお咎めなしだった。U氏が手を尽くしたのだろうが、同罪で一蓮托生を回避するためには当然か。大人の世界はやはり難解だ。

 

弾き弾かれ

〈昭和の忘れもの〉モノ・コト編㊼

【ピンボールマシン】

(上)バンパー〈数字の入ったキノコ状の装置〉

(下)フリッパー〈左右の白い羽状の装置〉

 古典的なアーケードゲームの代表といえばピンボールマシンだろうか。まだテレビゲームなど無かった頃は遊園地やボーリング場、あるいはデパートの屋上にも当たり前のように設置されていた。

 自身が熱中していたのは中学生だった70年代初頭で、いくつかお気に入りの機種もあった。一時期、某国内メーカーも参入した経緯があるが、早々に撤退したこともあってか(代表機種等の)記憶はない。何より旧式のマシンの記憶が鮮明なのは、斬新な機構よりも、バックボックス(スコアボード)や盤面に描かれた“アメリカン”なグラフィックの魅力のせいだろう。

 もともと1930年代にアメリカで生まれ、40年代に基本的な構造が確立したとされている。その隆盛に合わせて多くの会社の参入・撤退が相次いだが、80年代になるとテレビゲーム等の台頭によって一気に衰退した。現在でも一定数が生産されているが、大半はマニア向け(個人所有)とのことだ。あの大きな躯体の置き場所があり、騒音も気にする必要のない住居環境の持ち主の特権というわけだ。

 傾斜した盤上を転がり落ちてくる鉄球を、フリッパーと呼ぶ装置で打ち返す。盤面には様々な仕掛けがあり、ゲートを通過したり、ターゲットにボールを当てたりして得点を重ねる。既定の得点数をクリア、あるいは特定のターゲットにボールを的中させたりゲートを通過させるとボーナスゲーム(1ゲーム無料)を獲得できた。そのために個々のマシンの特性や攻略法を研究し、いかにボーナスゲームをゲットするかと腐心したものだ。

 賞品がもらえるわけでもなく、獲得点数や無料でゲームを続けられるという自己満足だけなのだが、けっこう真剣にプレイしていた事実が今では信じられない。ゲーム代も当時の小遣い事情に照らせば決して安くはなかったはずだ。それでも、上級者になれば100~200円で1時間ほどは楽しめたので、コスパの良い娯楽だったといえるかもしれない。

 自身は友人と二人でプレイすることが多かった。1ゲーム3球のうち1,2球は交代で、3球目はいわばダブルスのように左右のフリッパーをそれぞれが分担した。フリッパーの操作には多くの“技”があって、ボールの勢いを殺して左右にパスをしてターゲットに打ち返したり、時間差で左右の操作を繰り返すことでボールの軌道を変えることも出来た。ただし、いずれもコンマ何秒、ミリ単位の判断が求められる。

 友人の彼とは幼馴染で長い付き合いだ。だから、あうんの呼吸というやつでコンビネーションには自信があった。加えて彼は左利きだったので、互いに利き手でボタン操作できるという強みもあったのだ。

 一人当たりの出費額に対しての実質的なプレイ時間は変わらないが、共同戦線という意識が2倍の楽しみを与えてくれた。そのくせ選手交代し、傍らで“戦友”がプレイしている盤面を、というより銀色の鉄球の行方を追い続けていると妙な気持ちになった。同じコースに見えながら、機械(バンパースリングショットと呼ばれる仕掛け)に弾かれるたびにその動きは予測不能となり、自分ではどうにもならない社会そのものだと思えてしまう。外力によって望まない方向へ弾き飛ばされ、辛うじて打ち返しても壁に当たってまた別の方向へ。そして最後には周りの総べてから見放されたように、アウトボールとして奈落に落ちていく・・・。

 たまらず身を捩って逃れようとすれば、その振動がマシンに伝わり『TILT』(強制終了)となってしまう。これもまた実社会に通じるようで、無理やり我を通せば周囲が拒絶反応を起こして孤立し、物事は進まなくなってしまうということなのだろう。そもそもボールが我が身なら、フリッパーで打ち返すことは自分を再び“嵐”の中に放り出すという矛盾に満ちた行為に他ならない。

 この自虐的な見方は明らかに後付け、こじつけである。当時中学生だったガキが真剣に将来を考えていたはずもなく、卒業前にはすでにゲームセンターから足が遠退いていたからだ。屁理屈をこねてピンボールと人生を重ね合わせようとする企ては、あまりに安直で傍目にもお見通しに違いない。したがって廉恥心で赤面するしかないが、それでも高校時分には真面目に己と対峙したこともあったのだ。

〈今の居場所は、見える景色は自分の望んだものなのか?〉

 ところが時の移ろいにつれて殊勝な思いも薄れ、気付けば、ゲームソフトの発売日に狂奔するファンやスマホゲームに夢中の若者に眉を欹てている自分がいた。ドキリとした。ツールやハードが変わっただけで、かつての自分たちの熱中と同じなのに。

 そんな自省とともに、体感として記憶されているマシンの物理的な大きさやターゲットの稼働音・衝撃音、フリッパーから伝わる鉄球の重量感が蘇る。

 そこに彼らの反駁が重なった。

「あんたに残された時間は長くはないが、次のボールを打ち出す勇気と再び弾き飛ばされる覚悟はあるのかい?」

 まさに改めて自問したことだ。しかし・・・即答できない自分が嘆かわしい。