syouwanowasuremono’s blog

懐かしい旧車・モノ・コトにまつわる雑感

遙かなる咆哮

〈昭和の忘れもの〉バイク番外編

片岡義男のオートバイ讃歌『単車』 日本コロムビア(株)】

 作家の片岡義男氏監修「オートバイ讃歌3部作」第3弾で、旧車ファンなら誰もが知る8台の走行音(エンジン音・排気音・メカニカルノイズ)が収められたレコードである。

 エンジン始動から走行・停止までの一連の音や眼前を掠める通過音のみで、BGM・ナレーションの類いは一切無い。購入しておきながら言うのも何だが、マニアックなレコードは数あれど、こんなコアなマニア向けのレコードをよくぞ発売したものだと感心する。

 収録されている8台の内の5台(年改含む)は実際に運転したことがあるので、改めてエキゾーストノートを聴くとまざまざと当時の記憶が蘇る。さらに言えば、実際のライディングでは「聴覚」だけを切り取って情報処理を行なうことはないので、新鮮でもある。

 エンジン回転の高まり、シフトアップのタイミング、チェーンの張り具合、車体の振動、路面状況、リアサスの動き・・・それらが目に見えるようだ。ただ、リスナーには一つだけ注文がある。ヘッドフォン等を使わず、それなりのパワーがあるスピーカーで聴いてほしい。低音の締まりとか、高音の伸びといったオーディオ機器のスペックは問題ではない。エンジンの振動や変速時のショック、押し寄せる空気の壁―――それらを耳だけではなく“体感”してもらいたいからだ。

 2輪愛好者の自己陶酔と言われてしまえばそれまでだが、純粋に実車のリアルな音源を収めたこのレコードは貴重だと思う。映画やドラマの一場面で聴くバイクの音は、所詮絵作りの一部でしかない。鑑賞する側も、視覚で補正されたBGMとして捉えているに過ぎないのだ。

 そう意気込んではみたものの、はたと思った。自分はいったいどの立ち位置から語っているのだろう。そもそも、バイクに興味のない人間にとっては、エンジン音も排気音もただの騒音でしかないだろう。ここで言いたかったのは、旧車たちの“声”を残そうと企画した関係者の炯眼と熱意に対する称讃と感謝である。

 その昔、無謀にもバイクのリアシートにカセットレコーダーを括り付けて“音録り”に挑戦したことがあった。マイクセッティングの知識も必要な機材もなかったので、結果は推して知るべし。自分には聴こえていたはずの“バイクの声”は殆ど記録されておらず、風切り音とノイズだけが虚しくテープに残されていた・・・。

 そんな恥ずかしい経験があるからこそ、周囲の雑音が入らない時間帯・場所をリサーチし、ライダーとの連携を経て録音に臨んだスタッフの苦労が目に浮かぶ。(因みに、採録場所は奥多摩の林道や箱根の山岳路とのこと)

 最初にこのレコードを手にした際、直感的にイメージしたのは壮大な協奏曲だった。社会の背景やバイクを取り巻く環境も、大きなうねり・響きとなって邁進していく気運を纏っていたからだ。ところが半世紀が過ぎた今では、すでに運命を悟っていた彼らの悲しげな叫び、あるいは自らへの鎮魂歌のようにも聴こえてしまう。音楽的には、一つの文脈の中で「コンチェルト」と「レクイエム」が同時に語られることはあり得ないのだろうが、これはあくまでも無教養な個人の心象である。 

 だが誰も否定できないのは、今や環境の名の下に、機械の“音色”など気に掛ける者は殆どいないという現実だ。22世紀に向けては、できるだけ静かで存在を感じさせないことが優れた、実利的な物の在り方としての条件なのだろう。

 ここに至って、ようやく『単車』というアルバムタイトルの重みに気付いた。かつて個性的な2輪車が存在し、人もまた生身の一個人として機械と対峙していた時代―――それぞれの「個」、すなわち「単」を示唆し、象徴しているのだと。

 それが強引なこじつけだとしても、おそらくこの先に登場するのは、「モビリティー」とカテゴライズされる“機動性を有した複合的な製品”群であり、2輪・4輪という原型さえ失われてしまうのかもしれない。もちろんそんな未来は望まないが、世界の奔流には抗えそうにない。

 唯一自分にできるのは、スピーカーから放たれる旧車たちの咆哮を全身で受け止めつつ、往年の彼らの武勇伝に思いを馳せることだけだ。