syouwanowasuremono’s blog

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〈昭和の忘れもの〉モノ・コト編㊴

【『小さな恋のものがたりみつはしちかこ著(立風書房、学研)】

「呪縛」や「亡霊」といった不穏なワードが続いたので、今回は目一杯メルヘンタッチな話題である。

小さな恋のものがたり(1~46集)』通称「ちい恋」は、1967年から半世紀に亘って刊行された、みつはしちかこ氏の4コマまんがだ。叙情まんがと謳い、高校生の小川チイコ(チッチ)と村上聡(サリー)の淡い恋物語が描かれた。

 毎年5~6月に新刊が発売されるのが恒例だったが、発売日には待ち焦がれたファンが大挙して書店に押し寄せた。メインの読者は圧倒的に若い女性だったと思われるが、存外、中高生の男子も周囲の目から隠れながら読んでいたようだ。

 かく言う自身も、1駅先の本屋でこっそり買って読んだクチだ。チッチの心の声(乙女心?)は、恋に免疫のない中高生の男子にとっては参考書、あるいはガイドブックのようなものだったかもしれない。

 意地っ張りで世を拗ねていた“誰かさん”は当然もてるはずもなかったが、例によって一方的に恋心を抱くのは熱病のようなものだった。当時憧れていたのは、理知的で美しい年上の女性だった。当然ながら自分とどうなるという対象ではなかったが、ある時「ちい恋」を愛読していると知って意外に思った。(大人の彼女が少女マンガを?)

 そのくせどうしても気になって、隣駅の本屋までコソコソ出掛けたというわけだ。作品は、少女の淡い恋心を中心に若き日に誰もが抱いていた素直な心情を、何気ない日常を交えてありのままに描いている。

 4コマまんがの体裁なので余計な描き込みはないのだが、だからこそ登場人物に感情移入ができたのかもしれない。また要所に間奏・BGM、あるいはテーマのように作者の詩画が添えられていて、読者は自身の感情を整理・確認することができた。

 これは欲目なのかもしれないが、年上の彼女が「ちい恋」を愛読していたのは、主人公たちの成長を見守るというよりも、自分の中にあるピュアな心を見失わないためだったのではないか。そう考えると、いっそう彼女に対する憧れが強まった。

 みつはし氏は未だ健在だが、「ちい恋」はひとまず46集で終了している。読者はおそらく最後まで並走したと思われるが、年齢的には還暦を過ぎた彼女たち、あるいは彼らたちの実人生の恋愛模様はどのようなものだったのか。興味は尽きないが、たとえ悲しい結末だったとしても、その時のお互いを愛おしく思える心の持ち主であってほしいと願うばかりだ。

 自分は否応なく年齢を重ねてきたが、物語の中の二人は永遠に高校生のままだ。その隔たりに一抹の寂しさを覚えるものの、ページを開くたびにもどかしくてちょっぴり切なくて、それでいて温かい気持ちになるのはなぜなのだろう。

 おそらくそこには、“野の花”のような目立たないけれど純粋で優しい温もりを持った作品(主人公)を描きたい、という作者の信念が貫かれているからだろう。

 時代で括るつもりはないが、確かに令和の世では「ちい恋」の世界観は成立しないかもしれない。SNSは言うに及ばず、パソコンや携帯電話も存在しなかった時代に立ち返ることはもはや不可能だ。わかっていながら、時代という体験を重ねてきた世代は無意識に自問してしまうのだ。

(あの頃と現在と、どちらが幸せなのだろう?)

 空虚な問いではあるが、賢明な読者は一様に答えるに違いない。

「“あの頃”を知っているからこそ、今も幸せなのだ」と。

 メルヘンチックという和製表現が相応しいかはともかく、連綿と描かれた物語世界と、対極とも言える現実の日々―――そのどちらも受け入れてバランスさせてきた事実こそが生きた証と言えるのだろう。それにしても、こんな感傷的な観念論を抵抗なく口にできるのは、老生故というよりも、叙情まんがの密やかな影響力のせいかもしれない。侮るべからず。

 ところで、あの女性(ひと)は今でも「ちい恋」のページを開くことがあるのだろうか?