「思い出の匂い」
【ゾーリンゲンの珈琲ミル】 モノ・コト編④
ゾーリンゲンはドイツ西部の、言わずと知れた刃物で有名な工業都市である。
中でも「ツヴィリング」や「ヘンケルス」は包丁やナイフ、ハサミのブランドとして世界的に知れ渡っているが、その他にも様々な生活雑貨(主にそれらの金属部品)を扱うメーカーが多数存在する。いわば、街の名前自体がブランドとして認知されているのだ。このハンドミルもそんな中の一品だ。
「珈琲党? 紅茶党?」そんな質問をされることがままある。そんな時には明言を避け、「場面による」と意味深長を装うことにしている。
珈琲党が優勢なのか、今では駅前や大型ショッピングビルの中など、至る所で美味しい珈琲を飲むことができる。だが、昔は珈琲専門店に足を運ばねばならなかった。あるいは、渋めのマスターのいる喫茶店へ。
幸いなことに、小さな街中にも小粋な喫茶店が点在していて、たいていは馴染みの店があったものだ。それは未成年の身であっても平等で、自分たちの居場所として容認されていた。
そこでは閉塞感に抗いながら見通せない将来について語ったり、初めての恋に一喜一憂したり、時に悪ぶって煙草の紫煙に巻かれたり・・・。と、一向に珈琲の話は出てこない。
そう、リアル「昭和レトロの喫茶店」の思い出は、珈琲そのものの味や芳香ではない。店の佇まいや店主の人柄、友だちと時間を忘れて熱く語り合ったこと、若い心に刻まれたいくつかの出会いと別れ。それらが渾然一体となって醸し出す空気感ーーーそれが”匂い”となって記憶されているのだろう。
大人になって少しだけ懐に余裕ができた頃、本格的な珈琲を淹れたいと器具を揃え、味を追求しようと試みた時期があった。だがそれは根本的に見当違いで、かつての懐かしい店や懐かしい時代を追体験したいという、無意識の願望の現れだったのかもしれない。
現在、思い出深い店は悉く消えてしまい、ノスタルジーを呼び覚ます縁(よすが)として、この珈琲ミルが手元に残るのみだ。