「決別」
【SL350 part2】バイク編⑮
ーーある愚か者のモノローグーー
タイトルで悩んだ。季節柄、捻らずに「卒業」も考えたが、どこか受動的で行儀が良すぎるのが気になった。加えて、未来とセットのような、次の居場所を確保できた者だけに向けての証明書のようなニュアンスに抵抗を感じ、見送った。
以前、このSL350とは上手く付き合えたと書いた。故障続きで手間が掛かり、散々不平不満を漏らしていたのは事実だが、このバイクを通じて多くのことを経験したのも事実である。正味2年に満たなかったが、濃密な時間だった。
SL350は“青春”そのものだった―――小説やドラマの中なら何の衒いもないが、自分で言葉や文字にしてしまうと、これほど陳腐で気恥ずかしいことはない。しかし、今回は感傷にまみれ、嘲笑に晒されることも受け入れよう。
誰もが同じ道を歩んできたに違いない。目前の進路問題や、頭から離れない“あの子”のこと。そもそも自分は何がしたいのだろう? 何者になりたいんだ?
そんなことを考えながらの毎日は、まるでジェットコースターに乗っているようなものだった。穏やかに朝を迎えても、日中の些事に傷つき振り回され、夜には膝を抱えて塞ぎ込む―――時代はアナログだったが思考回路は右か左か、0か100(%)かのデジタル世代だった。根底にあったのは先進ではなく、未熟ゆえの単純さと選択肢の少なさであった。
そんな時、黙って寄り添ってくれる“相棒”はこの上なく頼もしい存在だ。けれどある時、ふと思ってしまったのだ。
(こいつは多くの事を知り過ぎている。一緒にいる限り、過去から逃れることはできない)
仲間との日々は楽しい思い出だったが、Yの「自意識過剰事件」以来、各自の間に不協和音が生じていた。そこには進路という現実も影響していたのだろう。
工業高校、高専、大学付属校・・・学校がバラバラなのは、進学の時点で彼らがある程度の方向性を決めていたからだ。次のステップが確定している彼らにとって、現在の足場が失われても実害はないのだ。何のことはない、自分だけがお気楽な毎日に流され、自由な時間が有限だということに気付けなかったというわけだ。
無為に過ごした日々を後悔しても、時すでに遅し。そこに失恋(一方的な想いが受け入れられなかっただけだが)という痛手が加わり、さらに精神的に追い詰められた。
煩悶の末、唐突に愛車を手放すことを決めた。仲間との思い出やマシンに対する思い入れ。自身と真摯に対峙しなかった後悔。明確な明日が見えない焦燥感。間近に迫る高校生活の終焉。それらが混沌として収拾がつかなくなり、一種の思考停止状態に陥っていた。
(ひとまず総べてを捨てよう)
短絡的な結論だった。リセットしてやり直そう―――そんな建設的な発想ではなかった。時代を纏ったタイムカプセルのようなバイクを置き去りにすることで、自身は身軽になれると錯覚しただけだ。前に進めるかどうかは別の問題なのに・・・。
別れの日。業者のトラックの荷台に載せられて遠ざかるSL350を見送りながら、不覚にも涙腺が緩みそうになった。モノに過剰な感情移入をしてしまうのは愚かだが、逃れようのない情理の存在は否定できない。思い入れには覚悟も必要なのだ、いつかやって来る決別の時も含めて。
その心情を端的に伝えられない語彙力の乏しさがもどかしい。そこで、それを補うために(本来なら禁じ手だが)才人の力を借りることにする。
例えば、この歌(曲)。これを聴いて頂ければ、愚か者の戯言に惑わされることなく、多くの人たちに頷いてもらえるだろう。
〽 めぐるめぐるよ時代は巡る
別れと出逢いをくり返し
・・・・
(中島みゆき『時代』より)