syouwanowasuremono’s blog

懐かしい旧車・モノ・コトにまつわる雑感

人生で一番長い坂

〈昭和の忘れもの〉バイク編㉓

【ホンダ CB750four】ショートストーリーVersion

 かつて文学少女だったマドンナに振られて以降、「新たな出発(たびだち)」などと浮かれていた気概が怪しくなった。

 気付けばタンデムシートは空席のままだし、昔のように玄関先までバイクで乗り付けて「走りに行こうぜ」と誘える仲間もいない。新たな同好の士であるK(750RS)やDさん(GL400)は多忙を極め、気まぐれに付き合わせるのは気が引けた。もとより遊び上手で多趣味な彼らは、バイクにどっぷりというわけではなかった。端からこちらとは温度差があったのだ。だが、逆に彼らの趣味に腰が引ける自分もいたのだからお互い様だ。

 隣の駅まで愛車のCB750fourで出掛けたある日、事件は起きた。日頃の主人のストレスが伝播したのか、用事を済ませてさて帰ろうといつもの手順を踏んだのに、CBが目を覚まさないことでパニックになった。キーボックスに挿したキーを捻り、セルボタンを押したが反応がない。ハンドル中央のインジケーターを見ると、ニュートラルを示すグリーンのランプが点いていなかった。ギアを確かめたが、ポジションに間違いはない。改めてキーを捻り、念のためクラッチレバーを握ってセルボタンを押した。やはり無反応だ。試しにキックペダルを引き出して踏み抜いたが、結果は同じだった。

 素人判断で電気系統の問題だろうと踏んだ。原付の「ダックス」あたりならともかく、パラレルフォーのエンジンはもちろん、視認できない電気系統のトラブルではお手上げだ。プロに任せるしかない。動揺を堪えながら、とにかくバイク店に連絡することにした。

 近くの公衆電話から電話をかけて窮状を伝えたが、返事は冷ややかなものだった。

「今日は手がないから引き取りは無理だな。明日の夕方なら何とか」

 失望と憤りを覚えたが、相手も切実な現状を答えたに過ぎない。怒りをぶつけたところでどうしようもないが、このまま路上や近隣の空き地に愛車を放置することは論外だった。あれこれ考えを巡らせたが、最終的な答えはシンプルだった。エンジンはかからないが、駆動部のどこかが破損したというわけではない。ホイル(タイヤ)がロックしているわけではないから押すことはできる。ならば、何としても自宅まで自力で運ぼうと決めた。

 電車で1駅、直線距離で2㎞強である。歩きなら30分。頭でそう計算したが、すぐに現実は単純ではないことに気付いた。地図上なら確かにそんなものだが、実際は2点間の中程にけっこうな高低差の坂がある。所によって勾配は12%を越え、しかも総重量240㎏近い不安定な2輪の車体を、支えながら押していかねばならないのだ。

 考えただけでぞっとしたが、覚悟を決めてハンドルを掴み、両足に力を込めて踏ん張った。初めの1メートルは苦労したが、動き出すと安定した。なんとか押していけそうだ。

 無心に押していると次第に冷静になれた。

(待てよ。何とか坂道を避ける手はないのか?)

 幸い地元ということで道路状況はしっかり頭に入っていたので、シミュレーションしてみる。谷の部分を避けて高台の縁を大回りして行けば、最小限の高低差で乗り切れるかもしれない。当初考えた最短ルートをあっさり捨て、できるだけ緩い勾配の道路を選んで繋いでいく。まるで迷路ゲームのようだ。

 幾通りかを頭の中で試し、ようやく可能性の高いルートが浮かんだ。ただし、距離は2倍近くになってしまう。果たしてどのくらいかかるのだろう。2時間、いや3時間くらいはかかりそうだ。それでも、勾配10%強の坂道をナナハンを押して上る事と比べれば遙かに現実的だ。

 自慢じゃないが腕力に自信はない。体格的にも、本来ならナナハンライダー不適合と言われても仕方がないほどの細身である。それでもバイクを扱うコツは心得ているつもりだったし、実際、取り回しで倒したことはなかった。

 そんな自負を糧に、必死にCB750fourを押し続けた。フラットな路面では辛うじて老人の散歩程度の速さだが、僅かでも上り勾配になると這うような速度になった。速度が落ちても、坂を下ろうとする重力が加わるので押す力は反比例的に増加する。しかも、車体が直立状態なら最小限の力で支えることができるが、僅かでも向こう側に傾いたら引き戻すことはできない。したがって手前に重心が来るように車体を傾け、車重を腰で支えながら、かつハンドルを直進に保たなければならない。静止状態でもきついこの体勢のまま、バイクを押し続けなければならないのだ。

 誰かを罵りたい気分になったが、何の役にも立ちはしない。余計な思考を排除し、バイクを支えながら歩を進めることに集中した。途中でガソリンスタンドの看板を見かけたが、2輪にとって給油以外に何の助けにもならないことを経験済みなので素通りした。

「ガス欠ですか?」

 通りかかったライダーが声を掛けてきたが、スタンドを無視した状況を察してばつが悪そうに走り去った。その後ろ姿を見送り、緩やかな起伏をいくつか乗り切った時点で1時間が過ぎていた。春先の穏やかな日だったが、すでに上半身は汗まみれで、両手の握力は殆ど失われていた。危機的な状況だ。

 ところが、最大の難関はこの先に待ち構えていた。どう工夫しても、一箇所はきつい坂道を通過しなければならなかった。それがこの先に待っている。皮肉にも緩やかに一旦下り、そして少しずつ上っている。最大斜度は5度くらいだろう。歩く分には気にもならないレベルだが、バイクを押していくとなると話は別だ。アスリートの強化トレーニングのメニューにあってもおかしくないレベルだ。しかも、距離は優に300メートルはある。しかし、ここまで来てしまった以上後戻りはできない。死に物狂いで挑むしかなかった。

 先ずは微かな下り坂を、足がもつれない程度の速度に保ちながら慎重に進んだ。ここで転倒してしまったら元も子もない。そしていよいよ上り坂だ。深呼吸をし、攻撃態勢を整える。いざ、戦闘開始だ。

 一歩踏み出す毎にずっしりとした重量感が腕から肩、背中から下半身へと反撃してくる。歯を食いしばり、全身の力を掻き集めて押し返す。僅かにタイヤが動き始める。この機を逃さず、全体重をかけながら足で路面を蹴る。ようやくタイヤが回転し始め、数メートル進む。しかし、足の筋肉はすぐに音を上げ、回転速度はあっという間に落ちて、止まってしまう。後退しないようにフロントブレーキをかけ、呼吸を整える。この間も力を抜くことはできない。

 タイミングを計り、再び同じ事を繰り返す。正に地獄の坂道ダッシュの無限版だ。ただし、ダッシュと言いながら大きな負荷がかけられているので、気持ちとは裏腹にその速度はスローモーションの如くである。

 坂道はおよそ300メートル。5、6メート毎に、意に反したストップアンドゴーを繰り返して進むしかない。坂の途中で力尽きれば、バイクもろとも道路に叩きつけられるだけだ。そうなったらただでは済まない。ここは市街地へ向かう公道だ。路側帯が設けてあるが、車道は多くのクルマが行き交っている。誤って車道側にバイクを倒したら大事故になりかねない。

 他人にそんな緊張感が理解されるはずもなく、信号でクルマの流れが一時的に止まると一斉に好奇の目に晒され、時折声も掛けられる。

「ガス欠?」「故障?」「パンク?」「大丈夫?」

 本心から心配してくれる人もいるが、

『ざまぁ見ろ』『ナナハンを乗り回していい気になってるからだ』

 そんな嘲りの視線も少なからず浴びせられた。殆どは被害妄想の類いだろうが、絶望的な状況の中では、ポジティブな思考は浮かばなかった。

 殊に原付バイクのライダーに冷笑されたときは心が折れかけた。自分にはそんなつもりはなくても、相手から見れば日常的に大型バイクに“煽られて”いるような感情を抱いていたのだろう。残念だが如何ともし難い。原付の最高速度は30㎞と決められている。50㎞規制の公道では追い抜いていくしかないのだ。

 肉体的、精神的苦痛を味わいながら、拷問のような1時間半が過ぎ、ようやく坂道の頂に辿り着いた。やっとの思いでサイドスタンドを出し、車体が安定したのを確認すると、崩れるように道路に座り込んだ。全身から汗が噴き出し、腕の痙攣は治まらない。両足も自分のものではないかのように重く、二本の肉の丸太が付いているように思えた。

 通行人が怪訝そうな視線を投げていく。もうどうでも良かった。このままここで寝転んでしまいたかった。しかし、まだ終着点ではないのだ。起伏は少ないとはいえ、まだ1㎞近い道程が残っている。

 ボロボロになった身体に鞭打ち、何とか立ち上がった。ハンドルを掴み、サイドスタンドを蹴り上げる。シートを腰に預け、苦行を再開する。

 この先の道路はほぼ平坦なはずだが、体力的には限界で、頭の芯は朦朧としていた。不思議なことにバイクの重量が感じられない。決して軽くなったわけではなく、感覚が麻痺してしまったのだ。それでも無意識にバランスだけは保っていた。自分とバイクが“ハ”の字、いやどこかの熱血先生が説いた“人”の字に支え合い、ノロノロと進んでいく。

 もう周囲の好奇の目は気にならなかった。自分の行為が何なのかも定かではなくなった。ナナハンの重量を全身で支えながらひたすら前進する。左右の脚で一歩一歩踏ん張りながら、機械的に身体とバイクを進めていく。トランス状態とでも言うのだろうか、思考は完全に遮断され、視野もスポットライトのように限定的になった。

 それでも身体が覚えていたのだろう。いくつかの信号を過ぎ、横断歩道を渡り、路地を右に折れ、左に折れ・・・我が家に近づくにつれて、靄が晴れるように視界が広がっていく。

 そしてついに、ようやく、我が家の鉄錆の浮いた門扉が見えた。「ゴール!」心の中で叫びながら、道路と家の敷地の境界線を“二人”で通過した。庭の一角の定位置にCBを停め、サイドスタンドに車重を預けた瞬間、総べての緊張が解けて尻餅をつくようにへたり込んだ。息苦しくて酸素を求めて喘ぐのだが、肺には僅かな空気しか送り込まれない。必死に深い呼吸を繰り返す。両腕はもう1センチも上がらない。腰から下はまるで砂袋のようで、動かすどころか感覚さえ失われていた。

 その場に仰向けに寝転んだ。我が家の庭だ、誰に遠慮する必要があるだろう。忘れていた土の匂いがした。青い空を背景にして薄い雲が流れていた。僅かに首を動かすと、そこにはいつもと変わらない愛車の姿があった。一瞬、「故障」とか「修理」といった単語が過ぎったが、刹那に掻き消した。

 僅かだが身体の感覚が戻ったので、地面を這っていき、家の外壁に背中を預けるよう凭れかかった。視界いっぱいにCB750fourの車体が収まり、午後の遅い時間の太陽が、銀色のタンクを優しく照らしていた。

 今はただ、“相棒”と共にゴールできた達成感の余韻に浸っていたいと思った。

 

青い鳥と錦鯉

〈昭和の忘れもの〉クルマ編⑰

ダットサン ブルーバード1200DX(410型)】

 かつてBC戦争なる熾烈な競争があった。

『ブルーバード』(日産)VS『コロナ』トヨタ)という、2大自動車メーカーの覇権を廻る販売合戦は、一般家庭にも自家用車が普及し始めた高度経済成長期から20世紀末まで続いた。

 2代目となったブルーバード410型は、ライバルを引き離すべく1963年に投入された。他社が軒並み米国調を標榜していたのに対し、著名なデザイナー・ピニンファリーナを起用して欧風のデザインを前面に押し出した。

 コロナも翌年に3代目となる新型を発売してこれに対抗し、結果的にこの対決はトヨタが勝利した。販売台数としてはブルーバードも先代を上回る売れ行きだったのだが、コロナの勢いには勝てなかった。最大の敗因は俗に「たれ尻」と揶揄された410型のテールデザインにあった。大衆の目は米国調の“尖った”ラインが好みだったようで、欧州調の“緩い”テールデザインがお気に召さなかったらしい。

 その410型を母方の祖父が一時所有していた。以前「ブルーバードU」の話をしたが、さらに10年前にすでにブルーバードと縁があったというわけだ。

 祖父は腕の良い大工の棟梁で、頑固な職人気質そのままの人物だった。子供心には“恐い大人”でしかなかったが、冠婚葬祭で親類が集うときは、従兄弟と一緒にそれぞれの会場まで送迎してくれた。その運転は意外にも丁寧で、厳格さと気遣いが感じられた。

 おそらく日々の仕事ぶりそのものなのだろう。棟梁として、一癖も二癖もある昭和の一匹狼の職人たちを纏めるのは骨の折れることだったに違いない。これは偏見でしかないが、昭和の職人というと酒好きで仕事以外には無頓着というイメージが強い。実際、腕の良い職人は稼ぎも良かったので、賭け事を初め金の遣い方を間違える者が多かったとも聞く。それこそ「宵越しの銭は持たない」といった、誤った男気がまかり通っていたのだ。

 だが祖父はギャンブルも酒もやらず、しっかり職人たちを掌握していた。そこには大工としての腕だけでなく、人徳というものもあったかもしれない。人徳は大げさとしても、酒を飲まないので飲酒運転の心配はもちろん酒の席での失敗も皆無で、依頼主からの信頼は絶大だった。おかげで仕事が途切れることはなかったのだ。日銭が頼りの職人にとって、これ以上の頼もしさはなかっただろう。

 そんな生真面目な祖父の数少ない趣味が、釣りと錦鯉を飼うことだった。殊に錦鯉に関しては水槽を自作するほどの熱の入れようで、優雅に泳ぐ姿を飽くことなく眺めていた柔和な顔は忘れられない。

 記憶が蘇ったきっかけは、あるお笑い芸人の露出が最近特に目立ったからだ。長い下積みの末に花開いた『錦鯉』の二人である。この芸名から短絡的に祖父の思い出が喚起され、同時に懐かしい車名も浮かんだのだった。

 一時は2大メーカーのイメージリーダーとして激闘を繰り広げた両車だが、社会情勢の変化とはいえ、奇しくも2001年にどちらの車名も消滅してしまった。一方で、令和になって「コロナ」という名前だけが、クルマに無関心な若者も含めて全国民に知れ渡ったことは皮肉である。

 特定メーカーに肩入れするつもりはないし、またクルマ社会がどう変化すべきなのか見当もつかないが、長いトンネルの先に歴史ある車名の復活を期待する気持ちもあるのだ。甘いノスタルジーと嗤われたとしても。

 確かに時代はそんなに優しくはないのかもしれない。だが、せめて幸せの「青い鳥」が身近にいて欲しいと願うのは、それこそ童話の世界なのだろうか。

バッグの奥底

〈昭和の忘れもの〉モノ・コト編㉝

【マジソンバッグ】

 マジソンスクエアガーデンバッグ、通称『マジソンバッグ』が学生の間で流行ったのは60年代から70年代にかけてのことだ。

 ご存じの通りマディソン・スクエア・ガーデンとは、NBA(バスケット)の『ニューヨーク・ニックス』、NHL(アイスホッケー)の『ニューヨーク・レンジャース』のホームで、ミュージシャンのコンサート及びボクシングやプロレスなど「格闘技の殿堂」としても有名な米国のスタジアムである。日本でいえば武道館といったところか。

(註:施設名表記は主として“マディソン”。商品名表記は“マジソン”である)

 そのスタジアム名(英字)がプリントされたバッグは日本の鞄メーカー『エース株式会社』のオリジナルで、“本家”には存在しない。ところが、国内で売り出されると爆発的なヒットとなった。ただ、意匠登録がされていなかったので他社から次々と模造品が発売され、粗悪な商品も少なからず出回った。一説には総数1000万個とも2000万個ともいわれているが、野放し状態だったので国内でどれくらい売れたか正確には把握できていないという。

 感覚的には指定のスクールバッグかと思うほどの普及率だった。殊に女子高生は、ファッションアイテムとして持ち歩いていたように思う。同様のバッグながら、オリジナルにはないカラーや異なった材質の製品が氾濫していたことを逆手に取って、彼女たちは各々で個性を打ち出していた。

 とはいうものの、やはり制服にはネイビーカラーが似合った。膝丈のスカートに白い(あるいは紺の)ハイソックス、そしてこのマジソンバッグを提げていれば、たいていの女の子は可愛く見えた。(いかん、これはセクハラか?)

 もちろん相当数の男子も所有していた。人気の要因はそのサイズ感と使い勝手の良さにあった。最低限の教科書類と筆記用具、体操着などを放り込むには最適だったのだ。恥ずかしながら、自身もその恩恵に与ったひとりである。

マジックバッグ』というコンパクトに畳める、今でいうエコバッグ的な便利アイテムもあったが、実用一点張りで野暮ったかった。そこへいくとマジソンバッグはスポーティーで、何より英字の羅列が“おしゃれ”と錯覚させてくれた。

 このバッグを持っている女子はたいてい可愛く見えたと書いたが、真相は、バッグを提げた意中の女子の姿が焼き付いていたせいで記憶が歪められていたのだろう。思春期の男子生徒の目など所詮その程度のもので、いわば錯覚の連鎖である。

 最近では復刻版も販売されていて、それなりに人気らしい。確かに懐かしさはあるが、さすがに改めて購入しようとは思わない。現地には存在しないのに、バッグひとつで憧れが、外国が身近になったように思えた時代。携帯電話もSNSもなかったけれど、自分たちはリアルに人や物に触れて世代の共感を認めつつ、一方で懸命に自我を模索していた―――そんな日常に存在したからこそ意味があったのだ。

 いつの間にか失くしてしまったが、もしもかつて使っていた“現物”が目の前にあったら、現在の自分はいったい何を詰めるのだろうか?

 いや、もはやそんなものはありはしないのだ。唯一成すべきは、思わせぶりに僅かに口を開けたバッグの中身を検(あらた)めることではないか。おそらくそこにはあの子の涼やかな笑顔と共に、切ない思い出や干涸らびた夢の抜け殻が横たわっているのだろう。

 それくらいの予想はつく。なぜなら、流行りモノという共感と同調に引き摺られながらも、屈折した“自分らしさ”を詰め込むことで必死に抗っていた日々を覚えているからだ。だが肝心なのは、そんな“私物”を取り出して白日に晒す覚悟が、今の自分にあるかどうかなのだ。

 

ワンダーランドから見た月

〈昭和の忘れもの〉クルマ編⑯

【スズキ スズライトキャリイ】

 “世紀の天体ショー”という惹句に流されて夜空を仰いでいた。

 一生に一度の奇跡―――そんなふうに巷は煽っていたが、自身はそうした感慨よりもなぜか初めてクルマのハンドルを握ったときのことを思い出した。

 小学1年か2年だったと思う。「スズライトキャリイ」という、スズキが1961年に発売した空冷2サイクル2気筒(360㏄)の軽トラックだった。パワーがあって積載性も良く、商店などでは重宝されていた。

 もちろん実際に走行したわけではない。大人を真似てハンドルを回し、ギヤのチェンジレバーを動かしたりスイッチ類に触れるだけで、本物のクルマを運転している妄想に浸ることができたのだ。少年あるある(昭和限定?)というやつだ。

 月半ば過ぎの夜、決まって父親の古い知人のUさんが我が家にやって来た。父と酒を酌み交わすのが楽しみだったらしい。後になってわかったのだが、給料日前で懐が寂しくても心置きなく酒が飲めるというのが本音だったようだ。だが、酒好きでお人好しの父は一緒に飲める相手の来訪をいつも歓迎していた。やれやれ、呑兵衛はこれだから・・・。

 酒宴が始まると子供は邪魔者扱いされ、その場から追い出される羽目になる。我が家には台所の他は2間しかなく、酒宴の部屋から退散するにしても隣の部屋との境は襖一枚しかない安普請だった。最大の問題は、酒飲みの常で宴が進むにつれて話し声が大きくなることだ。しかも笑い声はさらに大きい。それが耳について寝ることもできない。

 そんな子供を気の毒に思ったのか、あるいは“只酒”の後ろめたさからか、ある晩Uさんがプレゼントのおもちゃを渡すようにクルマのキーをこの手に載せてくれた。

「運転席に乗ってもいいぞ」

 因みにUさんの職場は牛乳販売店で、『Y乳業』のロゴの入った軽トラ(それが「スズライトキャリイ」だった)でやって来る。それを知っていた少年の顔には、(クルマに触りたい!)という物欲しそうな表情が浮かんでいたのだろう。それがどうした。大人たちの酒盛りを気にしながら布団を被っているのは真っ平だった。

 喜び勇んで玄関から駆け出し、裏の路地に停めてある軽トラのドアを開けた。念願の運転席に座ってハンドルを握ると、それだけで大きな夢が叶ったように感じたものだ。我が家にはクルマがなかったが、“自家用車”を持っている家でも、たいていの父親は我が子といえども安易にクルマに触らせなかった。まだまだそれほどの贅沢品だったのだ。

 ハンドルを握って空想の世界をドライブしていると、時間が経つのも忘れた。

 路地の片側は生け垣で、その向こうの小さな家はシルエットになり、磨りガラスの嵌まった窓に明かりが黄色く灯っていた。その奥から大人たちの笑い声が漏れてくる。フロントガラスの遙か彼方を見上げると、秋の終わりの夜空に満月が浮かんでいた。

 その月の白さは鉄板剥き出しの車内の寒さを増幅させたが、輝く未来が待っていると告げている気もした。万人を照らす昼間の太陽とは違って、この自分だけのために光っているように思えたのだ。

    少年にとって軽トラのささやかな空間は、夏休みに原っぱの外れに作った秘密基地と同様、無邪気な希望が旗印のワンダーランドそのものだった。しかし、酒宴の喧噪と月夜の静寂を隔てていたのは窓ガラス一枚に過ぎない。この皮肉と悲哀に気付くには何十年もの時間が必要だった。

    大人になって社会の現実と月面に人類が足跡を残したことも知った自分は、もう無垢な心で月を愛でることはできそうにない。まして、夥しい数のスマホが一斉に夜空に向けられる光景を目にした後ではなおさらだ。

 だからこそ、冷え冷えとした軽トラの運転席から見上げたあの清雅な満月の記憶は、今でも忘れられないのだ。

それぞれの物語

〈昭和の忘れもの〉バイク番外編

【「ワイルド7」と「750(ナナハン)ライダー」】

 先頃、漫画家の石井いさみ氏が亡くなった。1975年から10年間に亘って「週刊少年チャンピオン」(秋田書店)に連載されたバイク漫画の金字塔、『750(ナナハン)ライダー』の作者である。

 主人公の高校生「早川光・はやかわひかる」は、愛車のホンダCB750fourを維持するためにガソリンスタンドでアルバイトをしている。連載開始当初「光」はアウトロー的に描かれていたが、時代の変遷と共に作画のタッチも変わり、中後半は真面目で成績優秀な〈委員長〉こと「久美子」との淡い恋や高校の仲間たち、彼らを見守る喫茶店のマスターとの交流が中心に描かれるようになった。

 バイクが活躍する場面もあるが、あくまでも脇役に徹していた。それでいて、まるで“仲間の一人”のような確固たる存在感を随所で放っていたのが印象深い。

 一方、『ワイルド7』は望月三起也氏(2016年没)が「週刊少年キング」(少年画報社)に連載(1969~1979)していたアクション漫画である。こちらは超法規的な権限を与えられた警察特殊部隊の7人の隊員たちが、各自の能力と改造バイクを駆使し、法の網を掻い潜る悪を“退治”するというタイトル通りのワイルドな話である。

 7人のマシンはそれぞれ内外の著名なバイクの改造車で、リーダー「飛葉大陸・ひばだいろく」が駆るバイクのベース車両がCB750fourだった。

 この2作品は、同じバイクを扱いながら内容は対極と言ってもいいだろう。『750ライダー』は叙情的な学園もの、『ワイルド7』はハードなアクションものである。それでも両氏が同じバイクを登場させたことは偶然ではないように思う。CB750fourにはエポックメーキングという冠がついていた。ゆえにリスペクトは当然ながら、作品に対する自信の象徴として登場させた―――というのは深読みだろうか。

 いずれにしても国産初のナナハン(750㏄)登場時、二人の作者が共に少なからず創作意欲を刺激されたことは想像に難くない。連載当時、市場には高性能でスタイリッシュなバイクが多数登場していた。けれども、作品として画面に違和感なく収まり、それだけで物語性を醸し出せるバイクは多くなかったのではないか。主役を張れるにも拘わらず、敢えて寡黙だが的確な演技に徹する名バイプレーヤー、それがCB750fourの存在感を表現する最適な言葉かもしれない。

 以前書いたが、自分が憧れのナナハン(CB750four)を手に入れたのは高校を卒業してずいぶんと時間が過ぎてからだった。当然この2作品は読んでいたが、世界観が全く違うことに大きな違和感は覚えなかった。それこそがこの”名優”の懐の深さなのだろう。

 思えば両作品には少なからず影響を受け、潜在的なナナハンへの想いを決定付けたと言ってもいいだろう。背中を押され、憧れのバイクを手に入れたことで出会えた人や景色は数多い。風を切って走るたびに味わった空気感は、例えようもなく甘美なものだった。あの時決断しなければ、その後のかけがえのない時間は存在しなかったのだ。

 個人的には望月作品のファンだったので、数年前に氏の訃報を聞いた際には喪失感で呆然とするばかりだった。何ら言葉に表す術もなくいつしか年月に紛れてしまったが、石井氏死去の報に触れ、反射的に浮かんだ“ナナハン”つながりでかつての悲嘆、無念が蘇った。・・・今度こそ伝えよう。

 両氏の作風は異なっていても、漫画に賭けた情熱に違いはなかっただろう。締め切りからも解放された今、案外、“あちらの世界”で漫画談義に花を咲かせているかもしれない。そんな空想をしながら改めて両氏に哀悼の意を表すると共に、漫画史に輝く名作を遺してくれたことに心から感謝したい。

 それぞれのナナハンライダーよ、永遠なれ!

先見の”迷”

〈昭和の忘れもの〉モノ・コト編㉜

東芝 A-800HFD(DIGITAL-Hi-Fi VHS)】

 メカ好きで新しモノ好きである。機械モノで新製品が出るとつい気になって、量販店(主として家電)へ足が向いてしまう。しかも意志が弱いときてるので過去にどれだけ無駄遣いを嘆き、悔し涙に暮れたことか。

 中でも大失敗といえるのがこの「デジタルVHS」なる代物だった。何しろ1ヶ月分の給料よりも高額で、すでにビデオレコーダーは持っていたのにどうして買う気になったのか今では定かではない。まあ、衝動買いとは得てしてそういうものだが。

 カタログには「プロ仕様」「デジタル再生」「Hi-Fi」といった文字が躍り、まるで映像クリエーターになれるかのような惹句が並んでいた。だからといってそうした分野に憧れがあったわけではないのに、「デジタル技術の集大成」という謳い文句にコロリとやられてしまったのだ。再生ヘッドに物理的にテープを接触させる基本構造は変わらず、何処がどうデジタル技術なのかも理解できないまま。

 それでも、専らテレビでのスポーツ観戦にスイッチしていたかつてのサッカー少年には、分割画面表示とかデジタルスロー再生(正逆可)といった機能は実に魅力的だった。一例がサッカーのゴールシーン。今でこそスポーツ中継でのスロー再生やストップモーションなど普通のことだが、自分で自由にそうした操作ができるというのは当時は画期的だったのだ。それもカクカクした分解写真的なものではなく、滑らかな動画で! スポーツファンなら誰しも想像しただけでワクワクしたはずだ。

 ところが実際に使ってみてわかったのだが、謳い文句にあるようなマニアックな技術や操作を駆使する場面は限定的で、しかも高画質用(=高額な)テープを使用しなければならなかった。なおかつ画質にムラがあり、微妙なトラッキング調整が必要だった。そもそも放送自体(テレビ本体も)の解像度が高くなかったので、録画側がいくら高性能でもあまり意味はなかったのだ。例えれば、高速道路を飛ばす目的でスポーツカーを無理して購入したものの、日常的には軽自動車の方が燃費も使い勝手も優れていた―――そんな徒労感にも似た後悔の念は容易には消せなかった。少しばかり先取り感を誇示したいと焦った、浅はかな見栄の結果である。

 自分には先見性などないくせに先走り、迷走ばかりしていたというわけだ。さすがに、ある程度の年齢になると先ずは大勢を見極め、一呼吸置いてから自分なりのジャッジを下すことを心がけるようになった。とはいえこうした大局的な姿勢は、好奇心は失っていないけれど年相応の慎重さも必要なのだ、という苦しい言い訳のためだったかもしれない。

 それでも、時として“後出しジャンケン”なのに敢えて負けを選ぶという偏屈な悪癖は封印しきれなかった。その度に周囲からは呆れ顔で揶揄されたが、迂回や曲折した思考回路も場合によっては必要ではないだろうか。

 迷走はゴールが見えないからこそ面白い・・・のかも?

未練

〈昭和の忘れもの〉クルマ編⑮

マツダ サバンナRX-7(初代)】

 マツダが世界に誇るロータリーエンジン。その高性能ぶりは、かつてプレスト・ロータリークーペに乗っていた自分には良くわかっていた。だが、その高性能エンジンを搭載した新型車の発表が絶えて久しい。

 ナナハンに手を伸ばさなければ、あるいは経済的な余裕があれば・・・そんな後悔と割り切りの狭間で葛藤していた頃だ。後輩のTがグリーンのサバンナRX-7で我が家に乗り付けた。

「これ買ったので、遊びに来ました」

 内包していた“ロータリー愛(未練?)”を知ってか知らずか、いかにも無邪気な口振りだった。中古だという話だが、目立った傷もなく綺麗な車体だ。早速郊外を一回りすることになり、助手席に収まった。

 懐かしいロータリーサウンドが心地良い。車高の低さもあって体感速度は3割ほど増していて、走りの楽しさが蘇る。内部はさすがにタイトだが、彼女と二人ならこの密着感も悪くないかもしれない。諸事情からファミリーカーに宗旨替えしてしまった身としては、後輩の選択に嫉妬しつつも拍手を送ったのだった。

 ところが、話はそこで終わらなかった。およそ1年後、そのTから結婚式の招待状が届いた。“彼女”の存在は聞かされていたが、まさかこれほど早く結婚に至るとは思いもしなかった。何しろ、その時彼は22歳。さすがに早過ぎると勝手に危惧していた。

 式の当日。新婦を見て目を見張った。華やかなドレスと念入りなメイクを差し引いても、思わず見とれてしまうようなすらりとした美人だったのだ。なるほど、早々に独身生活にけじめをつけた理由に合点がいった。こんな美人をいつまでも独身にしておいたら,彼としては気が気ではないだろう。

 下世話ながらTの給料でやっていけるのかと心配したのだが、これまた杞憂だった。年上の彼女は某世界的電機メーカーの社員で、年収はTの倍以上。いわば逆玉、いやこれは髪結いの亭主というのか。いずれにせよ、さし当たって経済的な不安はなかったのだ。

 これまで何かにつけて面倒を見ていた後輩に、あれもこれも逆転された気分だった。殊に恋愛事情では連敗記録を更新したばかりだったので、内心穏やかではいられなかった。それでも僅かな対抗意識、先輩としての意地は残っていた。Tに対する羨望の導火線はスポーティーロータリー車だった。他人が羨む伴侶はともかく、クルマなら自分にも再びロータリーを駆る機会が巡ってきてリベンジができる―――そう信じていた。

 

 しかし、カーボンニュートラルとやらで世界の趨勢はEV(電気自動車)に舵を切り、ロータリーエンジン復活の夢はほぼ潰えてしまった。その無念さに唇を噛んだが、一方で安堵してもいたのだ。というのも、RX-7は2002年までモデルチェンジを重ね、RX-8に引き継がれて2012年まで生産された。またその間、ロータリーエンジン搭載の高級車も何車種か世に送り出されていたのだ。つまり、どうしてもロータリー車に乗りたければ、購入の機会はいくらでもあったのだ。だが踏み切らなかったのは(高額で手が出なかった現実は別として)、自身の思い入れの根源はロータリーエンジン自体ではなく、人生初愛車のプレスト・ロータリークーペにあったことに気付いたからに他ならない。

 手放した後の女々しいほどの未練は、初の愛車によって紡がれた多くの想い出に拠るところが大きかったということなのだろう。失って初めて思い知ることは多い。

 やはり初恋の相手は特別であり、忘れることができないものらしい。