syouwanowasuremono’s blog

懐かしい旧車・モノ・コトにまつわる雑感

昭和の忘れもの

「憧れの技術屋」

【スズキ AC90(改)part2】バイク編⑩

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 ある時期機械モノに興味を抱くのは、多くの少年にとっての通過儀礼のようなものかもしれない。自身も一時“エンジニア”に憧れて、その方面の進路を考えたことがあった。しかし、頭の構造が理数系に全く適さないことを悟り、早々に夢を諦めた。

 ところが、皮肉なことにそうした才能を持つ人物が身近に現れた。例のW1が不調で立ち往生していたとき、通りかかって修理してくれたのが縁で仲間に加わったBである。彼はちょっと異質な人物(お前の周りは変わり者ばかりじゃないかと言われそうだが)で、仲間が次々と大排気量車に乗り換える中、一貫して原付にしか乗らなかった。

 そもそもオンロードに興味を見せず専らオフロード、それも本格的なモトクロスに情熱を注いでいたのだ。実は彼、プライベーターながらチーム「YAMAHA」の専属ライダーだった。若くして優れたライディングセンスと、メカにも詳しいという能力を買われたのだ。

 チームのオーナーはヤマハのバイク販売店主で、いわば準ファクトリーチームといえた。実際、年式落ちのファクトリーマシンが供給されるほどの実績あるチームだった。

 ある時、近くでマシンのテストランをやるので一緒に来ないかと誘われた。当時は各地にモトクロスのコースが作られ、法規制も緩かったのでビギナーでも結構楽しめたのだ。

 バイクでチームのワゴン車に尾いて行くと、到着したのは××山のモトクロスコースだった。アップダウンが激しく、コーナーも多い難コースだ。

 ワゴン車にはマシンが二台積まれていた。一台はチーム「YAMAHA」で仕上げたMX250。もう一台は一回り以上小さい、見たことのない不格好なマシンだった。

「草レース用に俺が組んだ」

 Bがフレームから手作りしたのだという。フロントフォークやリアサスは各社のマシンからの流用。エンジンはAC90のものだが、オフロード用にチューニング済み。当然ギア比も変更し、ピックアップ重視で組み替えたとのことだった。

 AC90改はキック一発で始動した。甲高いエンジン音と、カストロール特有の匂いの混ざった青白い煙を残して最初のコーナーを目指す。

 20分ほど周回を重ねるのを見ていた。特別速くは見えないが、滑らかな走りだ。

「走ってみるか?」

 オフロードは得意ではないが、所詮90㏄のバイクだ。どうということもない。

 安易な気持ちで走り出したのだが、最初のコーナーに差し掛かった時点で自信は消し飛んだ。エンジンがピーキーでギアチェンジが追いつかず、ブレーキのタイミングも取れない。SL90時代に遊びで別のコースを走った経験があるので、ジャンプは恐くなかったがコーナーワークは思うようにいかず、周回を重ねても初心者レベルのままだった。

「とても俺の手には負えないよ」

「こいつはオモチャみたいなものさ。本番用は戦闘力の桁が違う。そいつをこれからテストして、調整しなくちゃならない」

 MX250は近く行われるレースに向けてのテスト走行のために持ち込んだのだが、本番前に壊してしまっては元も子もない。その点手作りマシンは完全に個人のものなので、Bは自由に走れる。コースの下見程度なら十分との判断だったようだ。

 チーム専属の立場では戦績だけでなく、多くの責任が伴う。殊にプライベーターは資金面ではシビアにならざるを得ない。リスクの軽減も重要なマネジメントの一環なのである。

 Bは一年前に高校を中退していて、レースに総べてを懸ける覚悟を決めていた。すでに名実ともにプロフェッショナルだったのだ。同い年ながら凄い奴だと唸らされた。

 それからしばらくは付かず離れずの関係が続いたが、次第に疎遠になった。おそらく、自分の夢に完全にシフトしたのだろう。そう考えると、寂しさもいくらか薄らいだ。

 あれから40年。単なる好奇心でしかないのだけれど、Bのその後についてはひどく気になっている。どこかのメーカーのテストライダーとか、あるいは車両開発の技術屋として名前を残していたら、ちょっとカッコいい!

昭和の忘れもの

「あの時の未来」

大阪万博 EXPO’70】モノ・コト編⑩

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 京都・奈良というのが地元近郊中学の修学旅行の定番だった。

 我が母校も慣習通りの予定だったが、急遽大阪が加えられた。ちょうど「EXPO‘70」の年に当たったおかげで大阪万博を見られる機会に恵まれたというわけだ。

 日本にとっては東京オリンピックに続く国家的一大イベントであり、国内は早くから祭り気分に浮き立っていた。神社仏閣には興味の湧かなかった少年たちも、異様な熱気に煽られながら修学旅行当日を迎えた。

 前日の京都の記憶はほとんど無く、ついにこの時が来たという感慨を胸に万博会場に足を踏み入れた。そこで仰ぎ見た「太陽の塔」の異形にまず度肝を抜かれた。

 友人グループで事前に“攻略目標”を決めてはいたのだが、人気のパビリオンは何処も長蛇の列だ。見回せば見知った顔ばかりで、お目当ては誰もが同じだった。   

 アメリカ館の目玉は月の石だったが、アポロ11号やアームストロング船長の予備知識がなければ、その辺の河原の石と見分けの付かない代物だった。

 地味な“石ころ”には失望したけれど、いくつかのパビリオンを巡って少年たちが思い描いたのは「鉄腕アトム」の世界であり、夢のような未来都市だった。直近では電話からはコードが消え、21世紀には空飛ぶ車が行き交い、各家庭では家政婦ロボットが家事をこなしている―――そんな、日本中が豊かな希望に満ちた国になっているはずだった・・・。

 あれから半世紀。確かに電話からはコードが消えた。移動しながら話せるようになり、しかも一人一台の時代となった。けれど、アトムは街にいない。辛うじて掃除ロボットが一部の家庭の床を動き回っているだけだ。

 空飛ぶ自動車を目にすることもない。そもそも、大多数の人々は俯いて小さな画面と睨めっこの生活をしている。空の青さに素直に感動することも忘れ、大気汚染や地球温暖化からも目を背ける始末だ。高齢化が急速に進んだにもかかわらず、社会は老人たちに優しいとはいえない。では若者にはどうかといえば、これまた答えは否定的である。

 あの時未来を夢見た少年たちが社会で頑張ってきたはずなのに、いったいどこで道を誤ったのだろう。あるいは、夢見たこと自体が愚かだったのか。

 溜息混じりに嘆いたところで、他力本願で流されてきた結果だと言われれば返す言葉がない。だが技術も知見も進歩した現在、再びの大阪万博の場では21世紀発の「人類の進歩と調和」が提起されることを望みたい。

 ところが感染症の影響もあって、「大阪万博2025」はAIを活用したプラットフォームとAR・MR(拡張現実・複合現実)技術が核になるだろうと言われている。テクノロジーに疎い人間にはわけがわからないが、要するに、もはや生の人間同士の交流や実体は重要ではないということらしい。

 そんな風評を耳にしてしまうと、新たな時代の少年たちに今度こそ実現性のある、真に豊かな社会の構築を願わずにはいられない。あの時思い描いた50年後は”空想”だったけれど、この先の未来は”希望”であってほしいと。またしても他力本願である。

 故に、「真っ先に実現してほしいものは?」という問いに対し、こんな答えが返ってきても沈黙するしかないのだ。

「そりゃあ、全自動で親の介護をしてくれるロボットさ」

 

昭和の忘れもの

「無言の抗議」

【スズキ AC90(改)】バイク編⑨

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 実はオリジナルには乗ったことがない。このエンジンを載せたカスタムバイクには乗ったことがあるのだが、その話は後に譲る。

 今回はAC90(改)で市中を疾走していた人物の話だ。

 と言いながら彼の名前はおろか、年齢さえ知らない。おそらく二、三歳年上ではないかと想像していたが、実際は何もわからない。ただ、彼の乗る改造車というのがとにかく目立った。確かに元はAC90らしかったが、そのフレームに「側車」を溶接していたのだ。

 サイドカーといえばハーレーやBMWの大型バイクに取り付け、優雅にツーリングするリッチなオヤジのイメージだが、彼の場合は全くかけ離れたものだった。というのも、一般的に言うところの「リアカー」を「サイドカー」として使っていたからだ(ああ、ややこしい)。

 リアカーをベースにDIYでサイドカー風に仕立てたというなら拍手ものだったが、引き手部分を切断して片輪を取り外しただけという、まんまの「荷車」仕様であった。

 謎だらけの人物だったが、断片的な情報を総合すると父親が「廃品回収業」を営んでいて、彼はそれを手伝っているらしかった。皆が目にしていたのは廃品の回収前や荷下ろし後に空荷で走っている場面で、それは彼が真面目に働いている姿に他ならなかった。

 バイクはもちろん傷だらけだし、着ているものは汗まみれで汚れ放題だった。仕事の性質上やむを得ないにも拘わらず、その外見に対して周囲は心ない言葉を投げていた。特に小学生たちは辛辣で侮蔑的な言葉、いわゆる差別用語を連呼して囃したてた。尤も、精神的幼稚さでいえば高校生の自分たちも同類だった。街中で度々顔を合わせているのに、意図的に無視していたのだ。関わり合いたくない、仲間と思われたくないと。

 彼もまた、我々にすり寄ってくることはなかった。それはおそらく、当時の世間の目を自覚していたからなのだろう。あるいは「社会人」としての気骨だったか。

 ところが、たった一度だけ驚かされたことがある。バイク仲間と走っていて、たまたま交差点で出会った際だ。彼は我々の鼻先で、空の側車をリフトしたまま右折するというアクロバティックなライディングを見せつけたのだ。

 無言だったが、一瞬見せた挑むような視線が胸に刺さった。

(俺は、お前らみたいに遊びでバイクに乗ってるわけじゃないんだ)

 あのパフォーマンスは、家庭の事情も知らず言葉を交わしたこともないのに漠然と嫌悪し、無意識に差別的な目で見ていた自分たちに対する憤懣の表れだったのだろう。

 確かに、バイトで汗を流して稼いだ金でバイクを手に入れたとはいえ、それが他人を侮蔑してもいいという免罪符にはなり得ない。そんなことにも気付けなかった自分たちは本当に愚かだった。そのくせ、仲間意識だの友情だのと唱えていたのだから汗顔の至りだ。

 現在彼がどうしているかはわからないが、どこかで出会うことがあったら当時の非礼を詫びたいと思う。

 ただ、つい余計な質問をしてしまいそうで心配なのだ。

「その後、あのサイドカーはやはり廃品に?」

 もちろん、彼に思い切り睨みつけられることは間違いない。

 

昭和の忘れもの

「どっち派?」

【整髪料 MG5(資生堂)・バイタリス(ライオン)】モノ・コト編⑨

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 中学でサッカー部に入っていたことは以前書いた。そこでは半世紀前の運動部ならではの、現在では到底通用しないと思われる封建的な決まり事がいくつもあった。中でも最大の不文律が、運動部に入る以上、髪は坊主かスポーツ刈りが当たり前というものだ。

 新入部員は異議も唱えず素直に従い、進級しても辛い練習の日々が続く。ところが、三年の二学期になると状況が一変する。三年生は実質的に部活を引退して高校受験の準備に入るのだが、この時点でようやく顧問の先生から髪型の自由が認められる。

 待ちかねた先輩たちは、二年間の遅れを取り戻すかのように髪を伸ばし始める。ちょうど思春期の盛りである。女子にも興味が湧き、お洒落にも目覚めるころだ。

 そんな先輩の中に、早くから女子の憧れとなっていた“スター”が存在した。試合ともなればグラウンドの周囲は女子生徒で溢れ、お目当ての選手に熱い声援が送られる。勉学でもスポーツでも、秀でた人間は必然的に注目を浴びるものだ。髪型とは関係なく。

 スターは二人いた。二人ともFW(フォワード)だったが、お互いにプレースタイルが異なり、ひとりはフィジカルコンタクトをものともせずゴール前に切り込むタイプで、一方は華麗なステップでディフェンスを躱すスタイルだった。しかも、わかりやすいほど外見がプレースタイルと合致していたので、女子生徒のファンも完全に二分されていた。ワイルドorスタイリッシュ?

 実は後輩の間でも、目指すプレースタイルが二派に分かれていた。技術も無いのに、○○先輩のフェイントがどうとか、パスの精度がどうのと、皆が解説者気取りだった。それがいつしか最近のヘアスタイルの話になり、先輩たちが使用している整髪料にまで及んだ。すると、それぞれ「MG5」と「バイタリス」だというので、またまたここでも部員たちが二派に分かれる結果となった。

 それなりに真剣に部活に取り組んでいた自分は、そんなチームメイトを少しだけ冷めた目で見ていた。どちらの派になろうと、髪を伸ばせるのは一年後なのだ。何ともお気楽な話だ。この時点で想像できるように、そんな雑念を抱いてサッカーボールを追っているチームが大会を勝ち上がれるはずもなかった。

 結果として「サブ」にしかなれなかった身に他人のことをあれこれ言う資格はないが、素直にこれだけは言える気がする。懸命にボールを追っていた無垢な自分がいとおしい、と。

 ではあの三年間をもう一度やり直したいかと問われれば、返答に窮する。あの厳しい練習の日々は二度とご免だ。ご免だが・・・鏡を見る度に頭髪がめっきり寂しくなった現実を突きつけられると、つい呪文のように呟いてしまう。

「ああ、整髪料の選択で悩んでいたあの頃に戻りたい・・・」

 

                  (*両商品は現在も販売されている)

昭和の忘れもの

「天賦の才」

カワサキ 650-W1S(ダブワン)】バイク編⑧

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 何と言っても、キャブトンマフラーから放たれる重厚な排気音が圧巻だった。

 だが特段速くはないし、ギアチェンジとブレーキペダルは左右逆だし、デザインも古いしと、若いライダーが飛びつく要素はなかった。

 ところが、それは個人的な決めつけだったらしい。唐突に、仲間のNが中古のW1を手に入れたのだ。二週間前まで乗っていた、新車で買ったホンダの250ccを手放して。

 この頃、周りが競って大排気量車に乗り換え始めた時期だったが、それにしても本人のキャラクターとはギャップがあった。Nは根っからの軟派で、新し物好き。服から持ち物に至るまで、女子受けするお洒落な奴だった。そんなわけで“おじさん臭い”クラシカルなバイクは似つかわしくないと思えたのだ。

 Nの最大の欠点(?)は女の子に対して節操がないことだったが、そんな彼を誰も非難しなかった。なぜなら、ひとたびバイクに乗れば真っ当で仲間の和を乱すこともなく、模範的なライダーだったからだ。彼のバイク愛もまた本物だったのだ。

 さらに、W1に乗る姿を見慣れるにつれ、彼が渋い大人の男に成長したように感じられた。バイクマジックとでも言うべき錯覚かもしれないが、新たに連れ歩く女子も以前より大人びていて、いっそう羨ましく思ったものだ。

(なぜ、軽薄なあいつばかりがもてるんだ?)

 ちっぽけな人間と言われても仕方がないが、この頃の自分には羨望とか嫉妬という言葉が全身にまとわりついていた。当時の自分に代わって釈明すると、その夏の終わりに意中の女の子にバッサリと振られたばかりで、傷心の渦中だったのだ。

 Nに対する羨望を抱きながらも、自分は渋さを演出することも軽さに徹することもできない性分だとわかっていた。その意味では、彼の「才能」を認めざるを得なかった。

 天賦の才―――なるほど、奴は総べて見越していたに違いない。乗り換えたバイクも含めたセルフプロデュースの成果を。脱帽だった。

 自虐的ながら、こんな仲間のおかげで少しずつ成長できたのかもしれない。しかし、当時はそれを自覚することはできなかった。

 それどころか、17才の「ガキ」はただ溜息を漏らしていたのだ。自分には、南沙織の歌のような時間は訪れなかった、と。

       

昭和の忘れもの

「暗がりのときめき」

【スライドプロジェクター カラーキャビンⅡ】モノ・コト編⑧

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 世界最軽量の1眼レフカメラ(ペンタックスMX)が手に馴染むにつれ、行動範囲の狭さもあって、写真の出来映えが画一的なのが気になり始めた。そこで、目新しさを求めてリバーサルフィルムを併用するようになった。

 ネガフィルムと違って露出がシビアで、価格も高いのが難点だが技術を磨くのにはいいと思った。さらに、プロジェクターを使って大写しで見ることができるのが最大の利点だ。今でこそ大画面で映像を観られることなど当たり前だが、当時のテレビはせいぜい19インチ。大画面となると、映画館のスクリーンしか思い浮かばない時代だった。

 闇を貫いた光がスクリーンに反射し、観客の顔を照らし出す。あの何とも言えない淫靡な空気感。そこから生じる不安とときめき―――ある世代以上にはそんな映像体験がすり込まれているのだろう。

 映画といえば8ミリにも触れなくてはならないが、当時ようやく廉価版カメラが普及し始めていたとはいえ、現像代も高額だったのでなかなか手が出なかった。それ以前に、ムービーとスチールは似て非なるもの。そんな正論は言わずもがなだったが、つい「暗がり」の誘惑に負けてしまい、スライドプロジェクターと専用のスクリーンを買い込むはめになった。リバーサルに手を出した以上、必然の帰結だ。

 勢いのまま友人に声を掛け、時折映写会を開いた。旅先の風景写真がメインで「映写会」と銘打つほどのたいそうなものではないが、屯(たむろ)する口実にはなった。自分の撮った写真を肴に馬鹿話をする。それだけで十分だったのだ。

 自己満足でしかないが、映写する1コマ毎の順番構成をしたり、自分なりにイメージした曲を選曲・編集してBGMにするのは楽しい作業だった。日中であれば雨戸を閉めたり厚手のカーテンを引いたりと、映写するまでの手間は掛かったがそれも苦にはならなかった。

 今や写真のデータ(ネガや紙焼きも含めて)もパソコンに取り込み、細密なディスプレィでいつでも鑑賞できてしまう。簡単便利で隔世の感がある。そもそも、カメラを別体で手にする人間がどれだけ存在するのか。まして、一枚の写真を見るのに何重もの手間をかけるなんて、スマホ依存の現代では想像の埒外と言えるかもしれない。

 しかし、天邪鬼はいつの世にも存在する。事実ここにも。

 さてと、今日はPCとテレビの電源を落とし、懐かしいスライドを観ようと思う。さしずめ、BGMはロバータ・フラックあたりか。もちろん、LPレコードで。

 

昭和の忘れもの

「朝日の中で見たもの」

【ファミリアプレスト・ロータリークーペ part2】クルマ編③

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 以前、一日のうち21時間を車中で過ごしたことがあると書いた。

 今回は、その顛末をショートストーリー仕立てで。

 

 その夏のある日、ロータリークーペは北へ向かってひた走っていた。

 猪苗代湖から十和田湖を巡ったのち、本州最北端の大間崎を経由し、海岸線に沿って南下して竜飛崎を目指す計画だった。

 出発してから三日目の昼過ぎにむつ市を抜け、北回りで大間に入った。国道を外れてしばらく走ると大間崎である。長い道程だった。ここまで給油と食事、そしてトイレ休憩以外は走りっぱなしだった。クルマを降りて身体を伸ばし、海を見やった。本州最北端の地に立っていると思うとさすがに感慨深い。

 しばし旅愁に浸っていたが、沖合に弁天島灯台が目に付くくらいで、長閑な漁村そのものだ。マグロの話題で湧く時期ならば違ったかもしれないが、話し相手もない一人旅では、本州最北端の地を訪れた事実だけで十分だった。スタンプラリーのような駆け足の達成感を言い訳に、次の目的地に向かうことにした。

 地図によれば奇勝・仏ヶ浦までは一時間ほどの距離だ。夏のこの時期、まだ日のあるうちに着けるだろう。いろいろと人の話を聞き、ここまで来たからには是非とも訪れてみたいと思っていたので、迷わず先を急いだ。

 だが、この判断が大きな誤りだった。旅情に流され、ガソリンの残量を見落としていた。かなり走ってから燃料計と距離計を照らし合わせると、あと30㎞ほどで底をつく計算だった。この時ほど燃費の悪さを呪ったことはない。感覚ではとうに目的地に着いているはずだったが、いつの間にか集落の影も消え、標識の類いさえ見かけない。不親切だとぼやきながら、あと少しと言い聞かせて先に進んだが、気付けば道路は未舗装となり、ついに日没になってしまった。

 辺りは鬱蒼とした林となり、闇が深まった。明日にしておけば良かったと思ったが、後の祭りだ。道幅はいつしか一車線分になって、路面は波打った穴だらけの林道と化していた。悪路のせいでスピードが出せず、所によっては歩きよりも遅い。距離がどうであれ、この調子では今日中に辿り着けそうになかった。思わず点灯したヘッドライトの明かりはいかにも頼りなかったが、その光輪の外は漆黒の闇だった。車窓の両側はもちろん、前方の上部にも一点の光もなかった。生い茂った枝葉のせいで、星の有無さえわからない。

 未知の土地でたった一人、しかも周囲には人家もない真の闇である―――これは孤独感とかではなく、正直、恐怖以外の何物でもなかった。無意識にカーステレオのスイッチを入れ、ボリュームを上げた。クルマという隔離された空間があることで辛うじて平常心を保てたが、生身でこの闇の中に放り出されたら―――そう考えると、恐ろしさが胸の中でさらに膨らんだ。

 対向車はもちろん、自車のヘッドライト以外の光は皆無で、真っ黒な画用紙に豆電球を翳しているような感覚だった。しかも、悪路のせいで上下左右に電球を振り回しているかのようで落ち着かない。不安に押し潰されそうになりながら走り続けると、緩やかなカーブの手前に僅かに幅員の広い場所が見えた。どうやら、すれ違いのための退避所らしい。

(引き返そう)

 そう決断してクルマを停め、車外に出た。室内灯の仄かな光で足元を照らす。手探りならぬ足探りで反対側の路肩を調べた。下草はあるが、50センチ程奥までは障害物もなく、平坦だ。その先は確認できないが、退避所と草地を含めた幅を使えば辛うじて方向転換ができそうだ。

 最徐行でクルマを動かし、数十センチ進んでは後退する。誤って脱輪でもしたら取り返しがつかない。必死にステアリングを回し、同じ操作を繰り返した。十回近く切り返しをして、ようやく方向転換をすることができた。

 夢中で、来た道を引き返した。まるで何かに追われているかのように。燃料計の針はほとんどゼロを指している。

(頼む。何とか人家のある場所まで走ってくれ)

 夏の熱気も手伝って、汗だくになりながらステアリングを握りしめていた。

 どのくらい走っただろうか。ようやく建物らしきシルエットが目に入った。さらに、左側の道端に古びた街灯が見え、その奥に平地の拡がりがぼんやりと浮かんだ。反射的にステアリングを切り、クルマを乗り入れた。全身から一気に力が抜け、大きく息を吐き出してからエンジンを切った。車内の時計は午後九時を回っていた。

 この時になってようやく、早い昼食以降、何も口にしていないことを思い出した。安堵感と同時に空腹感が襲ってきたが、長時間運転の緊張による疲労感がそれに勝っていた。思考が停止し、いつの間にか眠りに落ちていった。

 周囲の騒がしさに目が覚めた。無意識にシートを倒していたらしい。クルマの中だという感覚はあったが、状況はわからなかった。時計を見ると、七時少し前だった。顔を上げると、明るい光が目に飛び込んできた。同時に人の顔も。

「兄ちゃん、大丈夫か?」(土地の言葉だったので再現できないが、大意はこうだった)

 五、六人の男たちに囲まれていた。

 クルマを乗り入れた場所は、地元の漁師たちの「干し場」だった。幸い漁具も海藻類も拡げられていなかったので実害はなかったが、彼らにしてみれば迷惑な不法侵入者であることに変わりはない。にもかかわらず、世間知らずの若者を心配している風だった。寛大というより、それほど酷い風体だったに違いない。それも当然だ。昨日の昼から何も口にしておらず、疲れ切って十時間近く爆睡していたのだ。前日から通算すると、真夏の車内でほぼ一日過ごしたことになる。汗まみれで、風呂にも入らず。

 漁師たちに平謝りしながら、恥ずかしさと惨めさで、逃げるようにその場を離れた。

 動揺がようやく納まりかけた時、おそらくこの村唯一と思われるガソリンスタンドを見つけて飛び込んだ。

「満タンでお願いします」

 給油機のメーターの数字が際限なく上がっていくようでドキドキしたが、ようやく止まった。タンクの容量より0.5リットル少ないだけだった。引き返すタイミングがあと少し遅れていたら・・・そう思うとぞっとした。

 クルマは満タンになったが、ドライバーは腹ぺこだ。それでも、これでまた300㎞は走れると思うと気持ちは豊かになれた。

 エンジンをかけ、再び走り出した。潮風が心地良い。青空には申し訳ほどの白い雲がぽっかりと浮かび、凪いだ海面は朝日を反射して煌めいていた。それを眺めているだけで穏やかな気持ちになれる。日の光がこれほどの安寧をもたらすとは、昨日までは想像もできなかった。人の心はかくも移ろいやすく、不確実なものらしい。

 行き交う車もなく、信号機もない。時折車窓から見える家は静かに佇んでいるばかりである。それでいて確実に命の営み、息づかいというものが感じられた。そんな感慨に耽りながら走り続けていると、これまでの日常が少しずつ剥がれ落ちていくようだった。呼応するように不思議な爽快感、開放感が全身を浸していく。と、前方にトラクター、いや耕運機がのんびりと移動しているのが目に入った。当時はよく見かけた、後部に荷車を繋げた代物だ。本来農作業用に作られているので、速度は歩きと大差が無い。

 バーハンドルを握るのは麦わら帽のお爺さんで、荷台には老婆が後ろ向きにちょこんと座っていた。夫婦なのだろう。老婆の顔には深い皺が刻まれ、姉さん被りの手拭いがお揃いのように違和感がなかった。

 ゆっくりと横を通り抜けながら、それとなく二人の表情を窺った。二人とも皺の底に笑顔があった。一瞬、旅人である自分に向けられたのかと思ったがそうではなかった。老妻は夫に対する信頼と今の生活の充足感、老夫は妻に対する長年の感謝と、伴侶として選んだ自賛の表れだったのだろう。言葉を交わさなくても、背中合わせで耕運機に揺られながら、互いに確信しているのが伝わってきた。『二人でいられて幸せ』だと。

 勝手な想像だったが、そう思い込んだ途端に胸が熱くなり、素人劇団の公演タイトルのような台詞を口走っていた。

「本州最果ての地に愛を見た」

 赤面して辺りを窺ったが、幸い助手席を含めて誰もいなかった。ほっとしながらルームミラーを覗くと、耕運機と二人の姿はすでに小さな点になっていた。

 気を取り直してステアリングを握ったところで、ふと自問した。

(あれ? 引き返してる)

 ガソリン補給後、なぜか昨夜のリベンジという考えが浮かばなかった。ひょっとして、あの老夫婦を見せるための神様の計らい?―――そんなファンタジーも妄想したが、あの悪路を二度と走りたくないという防衛本能のせいだとする方が理に適っている。いずれにせよ、景勝地を見損なったという未練、後悔は微塵もなかった。

 それよりも肝心なことがある。今の自分にとって何よりも重要なことだった。それは・・・まずは胃袋を満たすこと。そして風呂だ。頭に浮かんだことを復誦して吹き出しそうになったが、辛うじて堪えた。

 そんな滑稽な自分を振り払い、ロータリークーペのアクセルを深く踏み込んだ。

 夏はまだ続いていたーーー。