syouwanowasuremono’s blog

懐かしい旧車・モノ・コトにまつわる雑感

昭和の忘れもの

「代償」

【スバル レックス(360㏄)】クルマ編⑤

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 中古で買ったロータリークーペの月々の支払いと高額なガソリン代に汲々としていた頃、旧友のAからドライブの誘いがあった。

 Aとは小学校から高校まで一緒だったが、怠け者の誰かとは違って真面目な秀才タイプで、高校時代は受験勉強に明け暮れていた。もちろんバイクに関心などなかったので自然に距離ができ、電話することもほとんどなくなっていた。

 そんな彼から声を掛けられて意外に思ったが、卒業から年月が過ぎた懐かしさもあって二つ返事でOKした。彼がどんなクルマを選んだのかという好奇心もあった。

 だが、現れたクルマを見て拍子抜けした。スバルの軽自動車「レックス」だった。

 決して軽自動車を馬鹿にしているわけではない。350㏄以上のバイクを散々乗り回していた身としては、360㏄の軽自動車(後に規制が変わり500㏄、550㏄へと拡大した)は感覚的に「自動車」というイメージではなかったのだ。しかも、自分の愛車がいわゆる「スポーツカー」に属するものだったので、その感はさらに大きかった。

 でもそれは趣味・嗜好の問題であり、他人が口を挟むことではない。彼は二輪を経験していないし、そこにあったロマンとかには無関心だった。彼が求めていたのは実用性、移動手段としての四輪車だった。軽自動車という選択は経済性でも堅実といえた。

 Aは休日を利用して関東近郊の観光地巡りを楽しんでいた。免許を取ってから半年ほどは家族しか乗せなかったが、ようやく他人を乗せる余裕ができたという。

 車中では近況などを語りながら千葉方面の観光地を巡り、何事もなく帰路についた。

 途中で自動車専用道路に入った。渋滞もなく、快適なドライブだった。ところが、しばらくしてやけにエンジンがうるさく、風切り音も耳に付くようになった。気になってスピードメーターを覗くと100㎞近くを指していた。

 正面に目をやると、先行車がみるみる迫ってくる。Aは速度を落とすことなく、追い越し車線に出てその車を追い抜いた。ところが、彼は走行車線には戻らず、さらにアクセルを踏み込んだ。

「そんなに飛ばさなくていいよ。ゆっくり帰ろうぜ」

 その言葉を無視し、Aは相変わらず追い越し車線を全開で走り続けた。

 速度自体が恐怖だったのではない。身体むき出しのバイクで、それなりの速度で散々走ってきたのだ。四方を覆われたクルマで100㎞超で走ることなどどうということもない。だが、エンジンの喘ぎやミッションの唸りは別だ。メカに関しては経験値というか、感覚で何となく察することができるのだ。先ほどからエンジンは悲鳴を上げている・・・。

 ザワザワした思いが頂点に達しようとした時、恐れていた事態が起こった。

『ボンッ』という音に続いて『ボッ、ボッ、ボボボ』という下水が詰まったような、潰れたパイプから空気が漏れるような音が背後(このレックスはリアにエンジンを積んでいる)から響き、エンジンが止まった。

 車体を震わせながら、何とか路肩に寄せた。交通量が少ないことが幸いだった。

 彼はまだ事態が呑み込めず、何度もキーを捻った。エンジンは掛からなかった。

エンジンブローだ。焼き付きだよ」

 そう言い含めると、Aは渋々レッカーを手配し、我々は電車で帰ることになった。

「あれくらいで壊れるなんて。もう軽は買わない!」

 彼は最後まで自分の運転の非を認めることはなかった。だが、その頑なさに呆れるというよりも、この真面目人間にも子供じみた意固地な面があると知って親しみを覚えた。劣等生が数式や科学の法則が苦手なのと同じで、優等生の彼は機械モノの機嫌の取り方を知らなかっただけなのだ。

 結局レックスは廃車することになり、早速次の車種を決めたという。その車名を聞いてちょっと嬉しくなった。後に“韋駄天”と呼ばれたスポーティーカーだった。Aは高い授業料を払ったけれど、クルマとの付き合い方を考え直したようだ。

 だから、こちらも心に決めた。またドライブに誘われたら喜んで付き合おうと。

昭和の忘れもの

「猪突猛進」

ヤマハ RX350】 バイク編⑫

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 洗練されたスタイルが目を引く、2サイクルの俊足マシンである。ヤマハらしい繊細なデザインでエンジン、特にミッションケースのシャープな造形は涙ものだ。

 このRX350に乗っていたのがWだ。彼は仲間内でも控えめな男で、話題を自分から提供するタイプではなかった。愛車のRX350はスリムでシート高も低く、一見大人しいマシンに見える。ガタイのいいWが跨がると125㏄クラスのバイクと見紛うほどで、なおさら非力に映った。

 しかし、こいつはとにかく速い。市街地でシグナルグランプリをやれば、仲間内ではこのRX350かマッハⅢの2サイクル車のどちらか。高原のワインディングロードや峠道なら、軽量な前者がぶっちぎりで先行する。排気量では倍近いXS650もあっさり置き去りにされてしまうのだ。

 だが、Wは決して“飛ばし屋”ではない。他所者の大排気量車に挑発されても意に介せず、熱くはならない。その点では我らが仲間の2サイクルコンビは似た者同士だ。それぞれの愛車はいずれも“スプリンター”なのに、なぜか本人たちはおっとりとしたのんびり屋である。おかげで事故ることもなく、和気あいあいと楽しく走ることができた。

 ただロングツーリングの際、Wはごく稀に一人で突っ走ることがある。もちろん先行車もなく、道路事情が許す範囲(?)ではあったが。

「こいつ(RX350)が『もっと速く走りたい』って言うから」

 理由を尋ねても、とぼけているのか天然なのかわからない答えが返ってくる。

 彼の中では、あくまでもバイクの気持ちを代弁しているという感覚らしい。確かに、ライダーとしてマシンに感情移入してしまうのは理解できるのだが・・・。

 ところが、Wが唐突に集団から抜け出して先行したのはバイクだけではなかった。誰一人予想だにしていなかったが、仲間で最初に結婚したのは彼だった。さすがに高校卒業後三年ほど経ってからの話だが、自分たちはスタートも途中経過も聞かされていなかったので、ただ唖然とするばかりだった。

 お相手は、彼の一途な突進に押し切られたのか、はたまた、天然ボケのような大らかな雰囲気を包容力と感じたのか。いずれにしても、お幸せにと言う他はなかった。

 というわけで結婚話2連発。新春スペシャルである―――このために、Wの話がモリタ君(CB350)の後になった次第だ。

 ただそこまで新年に拘るのなら、「丑」年に「猪」ではお粗末なタイトルではないか、との指摘はごもっとも。なので、謙虚にタイトルを変更しようと思う。

 彼のおっとりした性格を“牛歩”に準(なぞら)え、こんなのはいかが?

 『猪突牛(モ~)進』

昭和の忘れもの

「ご利益」

【ハクバ アルミケース(カメラバッグ)】モノ・コト編⑬

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 例のペンタックスMXが活躍の場を拡げた頃だ。各種レンズや周辺の機材が気になり始め、望遠レンズやらストロボやらを買い込むことになった。モノが増えれば必然的に“入れ物”が要る。カメラの場合はカメラバッグが。そこでまず思い浮かんだのが、このアルミ製のカメラバッグ(メーカーは“アルミケース”と称し、カメラと限定していない)だった。

 現在は機能性に優れた繊維素材が開発され、軽量で防水性能の高い製品が豊富に出回っているが、当時は堅牢性・防滴性を考慮するとこのバッグがベターな選択だった。本心は、いかにも“カメラマン”というイメージに流されていただけだが。

 ある年の正月、後輩の女の子に晴れ着の写真を撮って欲しいと頼まれた。誰が吹き込んだのか、趣味で写真をやっていると聞きつけたらしい。経緯はともかく、着物姿の女性を堂々と撮影できる数少ない機会だと思い、依頼を受けることにした。

 下心があったわけではない。アルバイトとして入ってきた彼女に先輩として仕事を教え、それから一年ほど一緒に働いていたというだけの関係だ。彼女にしてみれば、気心の知れた“兄貴分”程度の気持ちだったのではないか。

 詳しく話を聞くと、成人式のために親が買ってくれた振袖(当時は現在とは違い、レンタルに対して負のイメージがあったように思う)だが、その前に初詣で着たいのだという。確かに式の当日だけではもったいない。

 その日は快晴で風もなく、絶好の撮影日和だった。自分もいっぱしのカメラマン気取りで、レンズ類を詰め込んだアルミ製のバッグをクルマに積み込んだ。

 待ち合わせ場所は彼女の地元の名刹「K院」である。三が日の混雑は予想していたので二日ほどずらしたのだが、人出はさほど減ってはいなかった。晴れ着姿の愛娘に目を細める両親、着飾った若いカップル―――境内には見慣れた初詣の光景があった。

 そこに現れた彼女を見て驚いた。薄い紫地の振袖、白に銀糸と赤糸が織り込まれた帯。その艶やかな雰囲気に思わず息を呑んだ。自分はといえば、地味なフィールドコートにゴツいカメラバッグ―――明らかにひとりだけ周囲から浮いていた。

 いや、これは依頼された”仕事”なのだ。そう言い聞かせ、気恥ずかしさに赤面しつつ人の波を縫って参拝を済ませた後、レンズやフィルターを交換しながらフィルム三本分ほどの撮影を無事に終えた。

 そして帰り際、山門まで下ったところで、

「いけない。お御籤を引くのを忘れるとこだった。ちょっと待ってて」

 そう言い残して本堂へ向かう彼女を見送り、自分はカメラバッグに腰を下ろして一息入れていた。椅子代わりになるのもこいつの利点だ、などと己を慰めつつ。

 しばらく山門の下で待っていると、お御籤を手にした彼女が階段の上で声を上げた。

「見て見て。大吉!」

 と、次の瞬間、彼女の姿が視界から消えた。

「えっ?」

 驚いて足元を見ると、彼女が倒れ込んでいた。慣れない着物と履き物のせいで石段を踏み外したのだ。慌てて抱き起こそうとしたが、彼女は自力で立ち上がって歩き始めた。

(やれやれ・・・)

 だが、すぐに思い至った。若い女性が、多くの人々の目前で無様に転倒するという醜態を晒してしまったのだ。着物の裾や袖は土まみれの酷い有様だ。怪我の状況を確かめる余裕は無く、一秒でも早くその場から逃げ出したかったに違いない。

 途中から肩を貸して何とか駐車場に辿り着き、彼女をクルマに乗せた。着崩れを気にしている場合ではなかった。案の定、右の足首は捻挫していて腫れ上がり、出血こそなかったが膝と肘にも青痣ができていた。最悪の初詣だった・・・。

 新年早々縁起でもない―――と思われるかもしれないが、この話には後日談がある。

 彼女は通院を余儀なくされたのだが、ふた月ほど前から通っているカルチャースクールの聴講生の青年が、その送り迎えを買って出た。実は彼、以前から彼女のことが気になっていたのだが、話しかける機会も掴めず悶々としていたらしい。そんな折、彼女が松葉杖で登場したものだから、居ても立ってもいられなくなって声を掛けたというのだ。

 おかげと言うべきか一週間後には足首の腫れも引き、振袖も“洗い”が間に合って、成人式は無事に済ませることができたとのことだ。もちろん、プロによる記念撮影も。

 結果、その件がきっかけで交際に発展し、二年後、晴れて結婚の運びとなった。まさに怪我の功名だが、人生どこで何が幸いするかわからない。

 何より、名刹のご利益に偽りはなかった。

 

昭和の忘れもの

戦争と平和

【C-5ギャラクシー(輸送機)とオリジナルのウインドブレーカー】モノ・コト編⑫

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 大仰なタイトルだが、もちろんロシア文学の長編大作について語るわけではない。翻訳すると、基地とファッショナブルな店が同居する街で思ったこと―――といったところか。

 適度な距離と、軍用機が見られるという興味本位で、仲間とともに度々横田基地のある街・福生を訪れていた。当時は滑走路が間近で見られることを売りにしたドライブインがあり、戦闘機や大型の輸送機の離発着の迫力に圧倒されたものだ。

 ベトナム戦争時、北爆に使用されていたB-52も飛来していたが、軍用機マニア(「撮り鉄」のような呼称があるかどうかは知らない)にとって作戦内容は問題ではなかった。お目当ての機体をカメラに収められさえすれば、それで満足だったのだ。

 自分たちも似たようなもので、能天気に異国の雰囲気漂う街並みに惹かれていた。外国=アメリカの時代だ。英語のネオンや看板はどれもお洒落で格好良く見えたのだ。たとえ何の店かわからなくても。

 Nを除けば、仲間のファッションセンスはどんぐりの背比べだったが、「この街で手に入れたものならカッコいい」という思い込みがあった。そのころはファストファッションという言葉もなく、Levi’sのGパン(デニム)が1本7、8000円の時代である。現在だと30000円前後の感覚で、購入には相当な覚悟が必要だった。

 ある時、たまたま見つけた「洋品店」で仲間のひとりが店主とバイク談義で盛り上がり、揃いのウインドブレーカーを作ろうという話の流れになった。

 セミオーダーで、希望のラインやポケットを付けられるという。さらに、6着まとまればディスカウントできるとも。その場にいなかった者を加えて仲間は6人。結局、商売上手な店主に乗せられて、あれよあれよという間に話がまとまってしまった。

 その時勢いで購入したのが、この赤いウインドブレーカーである。秋口には寒くてほとんど用を成さない代物だったが、仲間の絆という建前で身に着けていた。本音は、なけなしの小遣いを吐き出してしまってやむなくだったのだが。(確か、5000円前後だったと記憶している。高い!)

 フェンス一枚隔てた向こう側には戦車を積み込んだC-5ギャラクシーが駐機しているというのに、こちら側では見てくれや仲間意識のためにウインドブレーカー1着に“大金”を払っている―――こんな不合理な現実が目の前にあることなど考えたこともなかった。

 反戦運動のことは知っていても、自分には無関係だと思っていた。戦争の悲惨さに胸が痛むと言いつつ、基地の街を“遊び”で訪れていた矛盾と身勝手・・・。

 だが、ここでは「横田空域」も含めた基地問題について論じるつもりはない。それらはしかるべき場で、紙数を割いてまとめたいと考えている。

 代わりに、いくつか統計の数字を挙げる。

ベトナム戦争における米兵の死者数 約6万人

第二次世界大戦時の米軍戦死者数 約29万人

・2020年12月現在のアメリカ国内のCOVID-19による死者数 約33万人

 なんと、新型コロナ感染症の死者(アメリカ国内)が先の大戦の戦死者数を上回っているのだ。この数字をどう捉えたらいいのだろうか。

 いみじくも誰かが言ったように、これは人類とウイルスとの戦争である。強引にタイトルに寄せたようで心苦しいが、「戦争」と表することはあながち誤りではないだろう。銃弾や爆撃による流血はないものの、見えない脅威によって自身の、あるいは身近な人間の命が奪われるかもしれない―――そんな漠然とした恐怖を抱きつつ送る日々。

 それは同時に、対極の平和な日常というものを意識することに他ならない。思うに任せない状況の中で、自分が本当は何を大切に思っているのかを再発見する契機となったかもしれない。

 理屈は不要だ。半生を顧みて、ふっと思い浮かんだ人や事柄が自身にとって最も大切なものなのだ。それらがこれまでも、そしてこれからも支えてくれるに違いない。

 では、そういうあなたが思い浮かべた人物は?―――そう訊かれたら、それは言わぬが花。黙秘することが何よりも(家庭)平和のためである。

 

 

昭和の忘れもの

「友達の友達は・・・」

【ホンダ CB350】バイク編⑪

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 一緒に走っていたバイク仲間というのはほとんど幼馴染みだったが、高校はバラバラだった。そのため自分の知らない、仲間の友人との出会いがあった。

 CB350に乗っていたモリタ君(仮名)はそのひとりだ。彼は仲間のWと同じ高校だったが、連(つる)むことを好まなかったので一緒に走ることはなかった。ただ住まいが隣町だったので、バイクで走っていると時たま遭遇した。

 彼はタンデムシートにいつも女の子を乗せていた。Wの話では、中学時代から付き合っている彼女だという。なるほど。単独行動の理由はそういうことだったのか。

 ある時、出先の駐車場でそのふたりにばったり会った。ひょろりと背の高いモリタ君の横には、小柄でセミロングの髪をポニーテールにした例の彼女が寄り添っていた。その彼女をまじまじと見て、羨望よりも嫉妬心が疼いた。化粧っ気がないにも拘わらず、自分の知るどの子よりも可愛かったからだ。

 彼の愛車のCB350は見た目も性能もバランスが良く、突出したところがない。言い換えると、面白みのない「優等生」のようなバイクだった。しかし、この優等生は侮れない。低速から高速までそつなくこなし、コーナリングも安定している。だから乗っていて疲れない、ある意味極上のマシンなのだ。

 ―――と評価しつつも、一方で素直に認められない自分がいた。頭に浮かぶのがCB350単体ではなく、にやけた笑顔のモリタ君と人形のような可愛い女の子とのセットだったからだ。何だか彼らを褒めるようで釈然としない。要するに、相も変わらずもてない男の僻み根性でしかなかった。ああ、自分はどれだけ女の子と縁の無い日々を送っているのだろう・・・。

 そんな惨めな気分を払拭してくれたのは、仲間のN(W1S〈ダブワン〉の彼である)の言葉だった。

「馬鹿な奴だな、俺たちの歳でひとりの女に決めるなんて。いい女はいくらでもいるのに」

 いつもなら眉を顰めるところだが、この時ばかりは不思議と腑に落ちた。いかにも乱暴な物言いだが、軟派野郎の言葉には妙な説得力があった。確かに公平性に欠け、明らかなセクハラだという責めも甘んじて受けるつもりだが、身近な仲間の言葉にはつい頷いてしまう。

 どうやら、友達の友達とは必ずしも友達になれるわけではない、ということらしい。その理由が、つまらない“やっかみ”だったとしても。

 ところで、二人はあのままゴールインしたのだろうか?

 ―――おっと、(友達でもない奴のことなど)どうでもいいことだ。

 そう、余計なお世話である。

昭和の忘れもの

 「少年の後悔」

【手編みのマフラー】モノ・コト編⑪

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 前回の修学旅行の話の流れで、恥ずかしい思い出を語ってしまおう。

 級友の多くは万博を楽しみにしていたのだが、一部の男女にとってはもう一つ大きな「イベント」があった。それは旅行中、僅か一時間だけ許された自由時間の使い途だった。土産店を覗くも良し、小路を散策するも良し。もちろん、好きな相手(異性)と一緒に。

 当日の「デート」の約束を取付けるために、旅行前に意中の相手に思いを告げる。そうしないまま卒業してしまったらきっと後悔する―――そんな切迫感が彼らの背中を押すのだ。とはいえ、考えてみれば一時間以内の移動範囲などたかが知れている。しかも、周りは顔見知りばかり。そんな状況で“二人の世界”など望むべくもなかった。

 つまり、本人たちはこれはイベントに過ぎない、中学時代の思い出になればいいと割り切ってもいたのだ。したがって、修学旅行が終わって不思議な熱気が冷めると、俄カップルはほとんどが自然消滅していく。そして、何事も無かったように卒業を迎えるのだ。

 だが稀に、冷静になって改めて向き合うことを考える真面目な人間も存在した。しかし、まさか自分がその渦中に巻き込まれるとは思いもしなかった。

 その冬の日曜日。彼女(あくまでも人称である)の自宅に招待された。

 これまで味わったことのない緊張感の中、居間に通された。意外にも彼女の他には誰もいなかった。てっきり両親が顔を出してあれこれ訊かれるかと覚悟していたので、一気に緊張感が緩んだ。ところがほっとしたのも束の間、今度は同じ部屋の中で彼女と二人きりという新たな緊張状態が発生した。

 頭の中が真っ白な少年に対して、彼女は話すべきことを決めていたらしく理路整然と進路のことや家族のこと、さらにはお互いの今後についてまで語った。

(ちょっと待ってくれ。この展開は何だ?)

 少年は圧倒され、曖昧な返答と相づちに終始した。無理もない。少し前まで部活一筋だった初心な(?)彼にとって、ようやく少しだけ打ち解けて話ができるようになったばかりの女の子との“未来”など、想像しようもなかった。

 それでも、彼女が自分に対して悪い感情を抱いていないことだけはわかった。その証拠に、帰り際に顔を赤らめながら手渡してくれたのだ。白い手編みのマフラーを。尤も、そのころ女子の間では、ボーイフレンドに手編みのマフラーを贈ることが流行っていたので、それに倣っただけだったかもしれない。もちろん、それを確かめる余裕はなかった。

 気まずさもあって慌ただしく玄関を出ると、駅まで送ると彼女が言った。その日は木枯らしの吹く寒い日だったのだが、彼女が羽織っていたのは薄手のコートだった。

 案の定、駅に着いた頃にはすっかり冷え切って彼女の唇は紫色になっていた。少年は思わず自分の首に巻いていたマフラーを外して彼女の首に巻き、ホームに駆け込んだ。

 彼は優しさのつもりだったのだが、相手はどう思ったのだろう。おそらくこれ以上はない侮辱と感じたことだろう。当たり前だ。一生懸命編んだマフラーを“突き返された”のだから。少年には女心を理解することができなかった。いや、それ以前の問題だ。

 それから間もなくのことだった、彼女から「さよなら」を告げられたのは。お気付きと思うが、この彼女があの「文通」事件の相手である。つまり、本当はこの「マフラー」事件が発端だったのに、潜在意識は都合良く「悪筆」をクローズアップしたのだ。

 けれども現実は正直だ。言い分など関係なく、初っ端での躓きはトラウマとなって尾を引き、その後の少年の恋バナは連戦連敗を喫することとなった。

 

昭和の忘れもの

「叔父との約束」

ニッサン プリンスグロリア スーパー6] クルマ編④

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 かつて母方の叔父が乗っていた、当時の高級車だ。

 辛うじて人並みの暮らしだった我が家とは違って、叔父は手広く商売をしていて二、三年毎にクルマを買い替えるほど羽振りが良かった。

 その叔父に溺愛されていた従兄弟と小学生当時はよく遊んでいた。彼の家は広くて遊び場には困らなかったので、毎週のように入り浸った時期もあった。だが、本音は従兄弟と遊ぶことよりも、ガレージに収まったクルマを眺めたくて足を運んでいたのかもしれない。

 そんな心情を察したのか、叔父が納車されたばかりのグロリアで従兄弟と一緒にドライブに連れ出してくれたことがあった。いつも仕事で忙しくしていて、子供の相手などしてくれた事がなかったので意外だった。そんなわけで、真新しい高級車に初めて乗った興奮と、妙な空気感を同時に感じながら車窓を眺めていた。

 そのドライブの途中、ふいに叔父が優しげな顔で言った。

「○○(従兄弟の名前)と仲良くやっていってくれよ」

 従業員を叱責している厳しい経営者の顔しか見たことがなかったので驚いた。当の従兄弟も不思議そうな顔をしていたのが印象的だった・・・。

 叔父の訃報を聞いた時は信じられなかった。享年54才。動脈瘤剥離だった。30年以上前のことである。当時は人生70年と言われていた時代だが、それにしても若過ぎた。

 早い旅立ちを悔やむ裏には自身の後ろめたさもあった。というのは、従兄弟とは小学校卒業を境に遊ぶことはもちろん、家に行くこともほとんどなくなっていたからだ。

「仲良くやっていってくれよ」と言った、あの時の叔父の顔が忘れられなかった。遙か昔の話なのに、自分の中では叔父の遺言にも思えて、一方的にその約束を反故にしたような罪悪感が消せずにいたのだ。

 さすがに葬儀の当日は口にできなかったが、後日の法事の際にそれとなく従兄弟に伝えると、彼は場に不似合いな笑顔を見せて言ってくれた。

「オヤジがそんなことを? 記憶に無いなぁ。誰だって忙しくて、他人の心配どころじゃないだろ。お互いに今は仕事して、家族を大事にしていればそれで十分じゃないか」

 記憶の有無の真偽はともかく、長年のわだかまりが霧散したように思った。同時に、従兄弟がすっかり叔父の後継者らしい面構えになっていたことに頼もしさを覚えた。

 考えてみれば、叔父の話はこちらの勝手な思い込みでしかなく、しかも成人した大人同士がいつまでも“仲良く”なんて気色が悪いだけだ。親族との関わりに煩わしさは付きものだが、従兄弟の言葉に背中を押されるまでもなく、以前から生存確認程度のつながり・距離感で十分だと考えていた。叔父の呪縛が解けたことでそれは確信に変わった。  

 ただ、さらに年月が流れても慣習やら体裁やらで何とはなしに目を伏せてきた。しかし、現状なら時代の先取りだったと自賛し、背筋を伸ばして公言できそうだ。

「ソーシャルディスタンスでいきましょう(・・・今さらだけど)」