syouwanowasuremono’s blog

懐かしい旧車・モノ・コトにまつわる雑感

魔法の言葉

〈昭和の忘れもの〉クルマ編⑳

トヨタ スプリンター1200SL】

 

 

 トヨタの「カローラ」は最多販売車種としてギネスにも認定されたロングセラーカーで、「スプリンター」は同車から派生した姉妹(兄弟?)車である。

 販売期間が長いこともあり、初代カローラ発売の1966年以降、スプリンターを含めて5台ほどと関わりがあった。今回はそれらを代表して、幼馴染が乗っていた2代目のスプリンター1200SLを取り上げることにした。

 小・中と同じ学校に通っていたオカノ君(仮名)とは小学時代は野球、中学では共にサッカー部で汗を流した。高校は別だったが、その頃はバイクが共通項だった。その彼の名前がこれまでバイク編になぜ登場しなかったかというと、モリタ君(CB350・バイク編⑪)と車種が被っていたからだ。オカノ君なら他にも話題に事欠かないので、いずれ別の機会にと先送りにしてきた次第。

 ところが、いざエピソードを開陳しようとして手が止まった。確かに話題は豊富なのだが、諸々差し障りがありそうだと気付いたのだ。法的にはともかく、関係者の体面とか名誉の問題である。したがって、以下に記すのは文字に起こして差し支えない範囲の話である。

 このスプリンターSLの所有者は彼の父親だったが、たまの休日にチョイ乗りする程度だったので、実質的にはオカノ君の“愛車”といえた。父親の条件はガソリンを満タンにして戻すこと、それだけだった。

 彼は最初こそ傷つけないようにと気を遣っていたが、日毎に大胆になり、いつの間にか勝手に改造するようになった。クーペスタイルとはいえ、ザ・ファミリーカーのスプリンターは血気盛んな若者には物足りなかったのだろう。手始めにシートカバーを替え、次はフェンダーミラー、そしてマフラー、タイヤとサスペンションとエスカレートしていった。

 彼に付き合って何度か同乗し、泊まりがけで旅行したこともあったが、はっきり言って乗り心地は最悪だった。車高を下げているせいで、道路沿いの店の駐車場に乗り入れるたびに車体の下部がガリガリと派手な音をたてる有様だったのだ。

 クルマに求めるものがすれ違っていたこともあったが、諸事情で次第に彼とは疎遠になった。ただ、お互いの家は100メートル程の距離なので、それとなく近況は伝わってきた。

 聞いたところでは、彼は毎週末の夜中にドライブに出掛けているとか。その「ドライブ」がどういう類いのものかは想像に難くないが、すでに社会人になっていた彼の中にいったい何が起きていたのだろうか。あるいは社会人故のフラストレーションの発露だったのか。

 そしてある日。極限まで車高を下げた、いわゆる“シャコタン”スプリンターは、郊外のとある工事中の道路の段差に乗り上げ、フロントフェンダーとエンジンのオイルパンを破損した。〈段差あり徐行〉の表示板があったにもかかわらず、けっこうな速度で走り抜けようとしたらしい。幸い、ドライバー本人は全くの無傷だったようだ。

 点検の結果、エンジン以外にもフロント部分(主に足回り)の広範囲にダメージが確認され、スプリンターSLは廃車せざるを得なくなった・・・とか。

 そんな風の便りも忘れかけた頃、突然オカノ君から電話があった。

クラウンを買ったんだ。近々ドライブに行かないか?」

 さすがにクラウン(“いつかはクラウン”でお馴染みのトヨタの高級車)を改造するとは思えなかったが、スプリンターの件でモヤモヤが晴れず、しばし返事を躊躇った。

 はて、自分は何に対して憤っているのだろう? 最悪の乗り心地だったクルマに対してか? 愛車に無謀な改造を加えた彼自身に対してか? だが彼が“愛車”に手を加え、誰と何処を走ろうがそれは彼の自由だ。自分とクルマとの関わり方や嗜好が違うからといって、彼自身を非難することは筋違いだろう。

 自分に正直で、好きなことに突き進む―――彼の遊び心は錆び付いていない。いささか子供っぽくて、もちろん純真な少年の心などと美化するつもりは毛頭無いが、未だに奔放な感性を持ち続けている彼を羨んでいたのかもしれない。

「付き合うよ。廃車になる前に」

 思いもかけずそう答えていた。

 直前に“幼馴染”という言葉が過ぎった気がした。洟垂れ小僧同士が大人への反抗心や無分別な行動を共有した時間は、相互信頼という記憶として深く刻まれていたのだろう。理屈抜きで、それまでの些細な疑念や不満は瞬時に霧散してしまった。

(ま、いっか)

 さしずめ、「幼馴染」は魔法の言葉なのかもしれない。

 

ほろ苦き味・・・夏

〈昭和の忘れもの〉モノ・コト編㊱

【レスカ(レモンスカッシュ)】

 無性にレモンスカッシュが飲みたくなった。

 コンビニへ行けばその類いの商品が並んでいるが、ふと浮かんだのはかつて喫茶店で飲んだ、あのビジュアルと味だった。悲しいかな、近隣に提供している店はない。

 仕方なく、有り物(レモン・炭酸水・ハチミツ)で何とか作ってみようと奮闘したものの、当然ながら“あの味”は再現できなかった。見た目もお粗末としか言いようがない。

 初めてレモンスカッシュに出会ったのは中学生になってからだ。大人に連れられて行ったレストランだった。ソーダ水の甘さに慣らされていた少年には、レモンの酸味と炭酸の刺激が新鮮で、初めてコーラを飲んだときの感覚を思い出した。

 高校生になって喫茶店に出入りするようになると、夏の初めにはけっこうな頻度で注文していたのだが、いつの間にか仲間と一緒にアイスコーヒーを飲んでいる自分がいた。炭酸の刺激がいかにも夏らしいというだけで、レモンスカッシュに特別な思い入れはなかったのだ。その時までは。

 夏の日盛りから逃れ、喫茶店でいつものように仲間と他愛のない話をしていると、大学生らしいカップルがやって来て、隣のテーブルに着くなり男がオーダーを告げた。

「レスカふたつ」

 そのふたりが美男美女だったせいなのか、「レスカ」の響きが妙に格好良くて、特別な飲み物のように思えたのだった。以来、いつか自分も同じようにオーダーしてみたいと憧れていた。

 しかし、気恥ずかしさもあって友人・仲間の前では実行できないまま季節は廻った。

 そうして、ようやく“その時”がやってきた。隣のクラスで気になっていた女子を、やっとのことで“お茶”に誘うことができたのだ。

 席に着き、さりげなく彼女の注文を確認する。そっと息を吐き、緊張しつつその時を待った。ウエイトレスの女性が近づいてくる。呪文のように頭の中で唱える。

(レスカ、レスカ、レスカ・・・)

「ご注文は?」

「オレンジフロートとレスカをください」(言えた!)

 途端にどっと疲れに襲われた。

 飲み物が届いた。お互いに黙ったままストローで液体を吸う。

 この時、自分が大きな過ちを犯していることに気付いていなかった。「レスカ」の3文字に神経を集中しすぎたせいで、頭の中は真っ白だった。何を話せば良いのかもわからない。無事注文できた=ミッション終了という気分になっていたのだ。肝心なのはこの先、お互いを知り合うことだったのに。

 結果は散々なものだった。会話は続かず、通夜のような重苦しさだけが残った。カルピスは初恋の味―――そんなCMがあったが、自分にとってレモンスカッシュは失恋の味となったのだ。いや、実際には始まってもいなかったけれど。

 そんな経緯で、レモンの皮の苦みそのもののような想い出を封印すべく、その後長きに亘ってレモンスカッシュを口にすることはなかった。

 年月が流れ、行きつけだった喫茶店が次々と姿を消していくのを目の当たりにして、一抹の懸念を抱いた。「レスカ」はもはや“絶滅危惧種”として、その言葉と共にメニューからも消えてしまうのだろうかと。 

 ところがいろいろ調べてみると、都市部の長年営業している喫茶店では「レモンスカッシュ」がしっかりメニューに残っていた。中には敢えて「レスカ」と表記している店もあるという。そこに“昭和レトロ”とやらが影響しているかは知らないが、安堵と同時に肩透かしを食った気分になった。

 夏が来るたびに、実はあの時のレモンの酸味と炭酸の刺激、そして戒めのようなほろ苦さを思い出していた。つまらない感傷や意地はもう捨てる潮時だろう。己の行動範囲の狭さ故に要らぬ危機感を抱いたことを反省しつつ、この夏こそは、ふらりと降りた駅前の年季の入った喫茶店を訪れ、誰憚ることなく高らかに注文しよう。

「レスカを!」           

同窓会の罪

〈昭和の忘れもの〉クルマ編⑲

【スズキ フロンテクーペGX】

 新規格(550㏄)の軽自動車が目立ち始めた頃だ。地元中学校の同窓会があり、懐かしい顔が集まった。懐かしいと言っても7、8年ぶりくらいの、何とも中途半端なものだった。

 散会してからお決まりの二次会の話になった。酒に弱いので個人的には乗り気ではなかったのだが、音頭を取ったのがかつてのバイク仲間のNだったので断り切れず、行く気満々の数人に付き合うことになった。

 歩いて10分ほどで着いたのは『鉄ちゃん』という看板の掛かった、居酒屋らしき店だった。住居に併設されたこぢんまりした造りだ。

 実のところ店の設えよりも、カーポートに収まったすでに生産が終了した「フロンテクーペGX」が気になっていた。2スト3気筒360㏄、最高出力37馬力。これはリッター換算すると100馬力オーバーで、単純比較ではあの「スカイラインGTR(KPGC10)」よりも強力なエンジンということになる。この事実は所有者の自尊心を十分くすぐった。

 軽とは思えない低いスタイリングはもちろん、インパネに並んだ6連メーターも憧れだった。メーターの数がスポーツカーの証だった時代だ。

「いらっしゃい」

 通い慣れた様子のNに続いてぞろぞろと暖簾を潜ると、威勢のいい声が迎えた。

「ここは鉄男の店なんだ。おまえ、小6の時同じクラスだったよな?」

 Nは自信たっぷりに言ったが、正直なところ記憶に定かではない。上の名前も思い出さないので、特に親しくはなかったはずだ。聞けば、中高は別だというから覚えていなくても不思議ではない。

 ただNを含めて3人が同じ高校出身ということで、店主の“鉄ちゃん”と思い出話で盛り上がっていた。自分は蚊帳の外だったが、クルマの件が気になっていたので会話に割り込んだ。

「あのフロンテは君の?」

「免許を取ってすぐに中古で買ったんだ、親父に金を借りてね。今は『フェアレディZとか欲しいけど、店を回すのに金が掛かるから当分は無理だな」

「フロンテクーペはいいクルマだよ。速いし、内装もカッコいいしさ」

 酒代では『鉄ちゃん』に貢献できそうになかったので、せめてもの社交辞令だった。それでも彼は嬉しそうに笑った。その無防備な笑顔が好印象だったので、一方的に友だちに格上げしたのだった。

 そのくせ、飲めない自分は結局その後『鉄ちゃん』に顔を出すことはなかった。不義理については常々心苦しく思っていたのだが、ある時、偶然近くを通りかかったので思い切って店を覗いてみようと足を向けた。ところが、その場に立って愕然とした。

 晴れがましく掲げられていた店の看板は外され、風雨のせいでペンキも剥げて朽ちかけていた。住居も廃屋然として、人の気配はない。もちろんカーポートのフロンテクーペの姿も消えていた。

 店が繁盛し、新たな店舗に移転したということなのか。しかし、建物の傷み具合から察するに、廃業して久しいという雰囲気だ。他人事のはずなのに、なぜか暗澹たる気持ちになった。彼は若くして一国一城の主となりながら、驕って高級車を乗り回すこともせず、地道な商いをしていたはずなのだ。

 真相は不明にもかかわらず、自分の中ではネガティブなストーリーが一人歩きしていた。例によって空回りした思い込みだと自覚しつつも、己の浅薄さを悔いた。クルマの話題など持ち出さなければ、記憶もあやふやな同級生のままでいられたのだ。そうすれば、『鉄ちゃん』の行方を気に病むこともなかったのに。

 嗚呼、二次会なんて、そもそも同窓会になんか行かなければよかった・・・。

 

艶舞の舞台裏

〈昭和の忘れもの〉モノ・コト編㉟

日劇ミュージックホール(NMH)】

 少しだけ艶っぽい話である。

 日劇(日本劇場)といえばかつては映画興行をはじめ「エスタンカーニバル」で一世を風靡し、娯楽の殿堂としてショービジネス界の人間にとっては憧れの場であった。また、スクリーンにも度々登場するおなじみの建物は、内部の装飾を含めて建築遺産としても話題となった。

日劇ミュージックホール」略してNMHは、その5階にあった小劇場である。日劇の本公演が表舞台とするなら、NMHは裏舞台ということになるだろうか。

 当初は、ごく普通の男が自然に抱く好奇心から劇場に足を踏み入れたのだが、実体は想像とは全く違っていた。ここで繰り広げられるショーのメインは、一言で言ってしまえばトップレスのダンサーによるレヴューであるが、そこには陰湿な卑猥さは微塵もない。ここで演じられていたショーは、地方都市のス〇リップショーとは別物だ。誤解の無いよう断っておくが、職業としてのダンサーを劇場の大小で差別するつもりはない。裸体は芸術か否かといった論争はさておき、あくまでも“ショー”としての作り込みの差である。

 NMHの舞台は専属の作家・演出家によってダンス、コント、歌が緻密に構成されていた。出演者も多彩で歌手は宝塚から招聘され、幕間のコント・お笑いではブレーク前のコント赤信号マギー司郎立川談志ら実力者揃いであった。さらに、ゲストの脚本家として著名な面々も参加していた。例えば寺山修司なかにし礼そして若き日の三島由紀夫も名を連ねていた。

 こうした事実だけでも、舞台のクオリティーの高さが想像できるだろう。もちろんダンサーたちのプロ意識は高く、舞台上の彼女たちの美しさは息を呑むほどで、かつセクシーだ。ただしそれは舞台表現の結果であり、性を前面に出して媚びているわけではない。踊りの基本はもちろん、表現力を磨いているからこその妖艶さなのだ。

 それは詭弁だと反発する向きもあるかもしれない。そうした意見も自由である。ただし、実際に舞台を見た御仁なら賛同してもらえると思うが、彼女たちが肉体で表現する美しさと躍動感は圧倒的で、感動ものである。劇場の観客たちの昂揚感は、ミュージシャンのコンサートで熱狂するファンたちと何一つ変わらない。

 ショービジネスのほんの一端を目にしたに過ぎないが、彼ら彼女らの舞台を創り上げる真摯な姿勢に対して、己の当初の邪心が回を重ねるにつれて恥ずかしくなった。結果、何事も偏見や先入観は御法度だという教訓を胸に刻み、程なく劇場に足を運ぶことをやめた。

 予期していたわけではないが、再開発のため1981年に惜しまれつつ日劇は閉館。NMHは劇場を移して活動を続けたが、1984年に閉場した。

 しかしその後、NMHに関わった多くの才能は各方面で脈々と引き継がれ、あるいは新たな芽を吹き、エンタメ界でそのDNAは生き続けている。様々な場面でそうした関係者の名前を見聞きすると、己の若き日の純朴さを思い出し、人知れず赤面してしまう。それほど鮮明に舞台で躍動する彼女たちの裸体、いや、凜々しい表情と艶舞(演舞)の輝きは今も脳裏に焼き付いている。

 残念ながら、日劇の名称を引き継いだ「TOHOシネマズ日劇」も2018年2月に閉館し、「日劇」の名は芸能史あるいは都市開発資料の中にひっそりと退場した。しかし、昭和を象徴する劇場・舞台は、表裏共に紛れもなく存在していたのだ。

 

駆け抜けた伝説

〈昭和の忘れもの〉バイク番外編

【『がむしゃら1500キロ』浮谷東次郎(ちくま文庫)】

 谷東次郎という名前をご存じの方はよほどのカーレース通か、年季の入ったバイクファンに違いない。彼は1942年(昭和17)千葉県市川市に生まれ、1965年に鈴鹿サーキットで練習走行中の事故でこの世を去った。23歳の誕生日の1ヶ月後のことだった。

 クルマ絡みで早世というと『ジェームス・ディーン』(享年24)、『赤木圭一朗』(享年21)という日米の銀幕スターが思い浮かぶ。彼らは華やかな舞台で脚光を浴びていたこともあり、早過ぎた旅立ちはセンセーショナルに報じられ、現在でも多くの熱烈なファンによって語り継がれている。

 一方、浮谷を語るとき、「夭折の天才レーサー」という冠がついて回るが、彼がレーサー(4輪)として活動したのは僅か1年半ほどだった。その短い間に輝かしい戦績を挙げた彼の才能は周囲が認めていたが、浮谷の名が未だに忘れ去られないのは、後に広く知られる彼の生き方自体にあるのだろう。

 彼の父親は成功した事業家で、教育に関しても型破りだった。そのおかげ(?)で東次郎は7歳でオートバイや自動車の運転を覚え、14歳で2輪免許(第1種原付)を取得した(当時、原付はこの年齢で取得できた)。そして翌年、50㏄のバイク(独:クライドラー)で市川から大阪までの往復1500キロの“冒険旅行”を敢行したのだ。

 たとえ原付でも、千葉と大阪の往復くらい日にちをかければ誰でもできそうじゃないか、と思われるかもしれない。だが当時の道路事情は想像以上に劣悪で、大都市の一部を除くと砂利道や未舗装のデコボコ道が大半だった。それに何処にでもガソリンスタンドやバイク屋があるわけでもなく、山道で故障でもしたら自分で修理しなければならなかった。そうした危険や不安を15歳の少年が一身に背負うことは、冒険と言って差し支えないだろう。

 この時の記録(手記)が収められているのが本書『がむしゃら1500キロ』である。(当初は私家版として200部印刷され、のちに書籍化〈1972年〉された。ただし文庫版発行は1990年、つまり、写真は昭和のモノではないことをご容赦頂きたい)

 本書を挙げたのは、あくまでも“バイク少年”の純粋な好奇心と冒険心にフォーカスしてのことである。ここには15歳の少年の忖度も衒いもない真っ新な心情が、言葉を飾ることなく綴られている。尤も、それを自己を貫く強い信念の持ち主として惹かれるか不遜だと嫌悪するか、評価は分かれるかもしれない。

 いずれにしても絶景やグルメとは無縁の、当時は無謀でしかなかった“旅”を成し遂げた意味は大きい。なぜなら、十数年の隔たりのある我々の世代では決して成し得ない、追体験の叶わないものだったからだ。

 同じ行程に挑んだとしても道路事情は改善され、バイクの性能も雲泥の差とあっては同列に語ることは無意味だ。決定的なのは、免許制度の改定により15歳では公道を走れないことだ。たった1年、誕生日によっては1日の違いで中学生と高校生の境界ともなる15歳と16歳それぞれの世界は、実際には時間以上に異なって見えることだろう。

 当然ながら、この一篇に収められた記述だけで浮谷東次郎という人物を語ることには無理がある。ただ、彼の信念は生涯一貫していた。思い立ったこと、信じたことは躊躇せずに実行するのだ、と。

 彼は22年と少ししか生きなかったが、その密度は同世代の誰よりも濃いものだった。直情径行と揶揄されることもあったが、常に全力で目標に挑む姿勢はそのままレーサーとしてのスタイルだった。周囲からは生き急いでいるように見えた(実際にそうなってしまった)が、本人にしてみれば後続を振り返る一瞬も惜しかったのだろう。

 自分が思春期にこの本を手にしていたら、バイクライフのスタートは違う形になっていたのだろうか。一つ言えるのは、周回遅れの我々が必死に先行集団を追ったとしても、彼らの後塵さえ見えなかっただろうという確信だ。そこには、時代という足枷や障壁に否応なくコース変更を強いられたに違いないという無力感も含んでいる。

 永遠に追いつけない背中、目眩く光跡の残像。決して触れることのできない歯痒さ故に、嫉妬とも羨望ともつかない思いに翻弄され続ける―――それこそが伝説たる所以なのだろう。

人生に助走期間なんてない。あるのはいつでもいきなり本番の走りだけだ

 ――東次郎語録より――

*興味を持った方は本書を含め、『オートバイと初恋と』『俺様の宝石さ』の3部作を一読されたい。

 

不実の報い

〈昭和の忘れもの〉クルマ編⑱

【ファミリア1500XGi part2】

「赤じゃないけど文句ある?」

 そう啖呵を切って購入を決めたファミリア1500XGiだったが、適度にスポーティーで且つ身の丈に合った、実用性の高いクルマだと本音で納得していた。ディーラー担当者のセールストークにしてやられたというのも嘘ではないが、乗り替えた動機の大半は別にあった。

 前年、先代の1400TC(ツーリングカスタム)が強引な割り込みをしてきたクルマに側面を傷つけられた。大事に至らなかったとはいえ、自分には非がないのにと釈然とせず、大いに落ち込んだ。この年それが前触れだったかのように祖母が他界し、続いて父親が体調を崩して入院することになった。

 そうした不運・災厄が続いたので何とか負の連鎖を止めたい、とにかく何かを変えなければと焦っていた。そんな時、ふとクルマを買い替えようと思いついたのだ。“大物”を処分することで「厄払い」ができるのでは、と。

 しかし、事態は好転しなかった。納車の三ヶ月後、父は帰らぬ人となった。祖母は天寿を全うしたと思えたが、父は前年還暦を迎えたばかりだった。

 厄払いも叶わず、単にクルマを買い替える口実が欲しかっただけなのではという呵責の念に苛まれ、新車という晴れやかさも急速に色褪せた。同時にXGi自体のイメージも一気に暗転してしまったが、皮肉にも黒い車体は法要の場には相応しかった。もしも赤だったら、不可抗力とはいえ周囲の視線に気まずい思いをしたに違いない。

 その後、このXGiはあちこちに遠征するようになった。後ろめたさを消し去ろうと疎遠になっていた友人を訪ねたり、敢えて人出の多い観光地を訪れたり。それもこれも自分に対する言い訳、逃避でしかなかったのだろう。

 そんな不純な動機が災いしてか、走行距離自体は思いの外伸びなかった。にもかかわらず、ある日信じられない事件が起きた。

 走行中急に排気音が高まったので何事かと思った瞬間、後方で『ガラガラガランッ』と派手な音がした。慌てて急停車して振り返ると、道路に何やら鉄パイプのような物が転がっていた。クルマを降りてよく見ると、それは破損した排気管だった。何と愛車のマフラーの一部が脱落していたのだ。

 予期できない貰い事故はともかく、きちんと定期点検に出していたクルマのマフラーが脱落するなんて想像もしなかった。メーカーの言い分だと排ガス規制のせいでマフラーの腐食が進んだらしいとか。

(そんな馬鹿な!)

 これには馴染みのメカニック氏も平身低頭で、最優先で交換作業をしてくれた。

 ともあれ、総じてこのXGiにはとことん嫌われたようだ。いや、相性あるいは巡り合わせが悪かったと言うべきか。というのもマフラー修理の半年後、今度は信号で停車中に脇見運転のクルマに追突されるという後日談が加わったからだ。省みると、父親の病状よりもクルマの買い替えに向いていた当時の心情を見透かされていたのかもしれない。無事に退院すると信じていたからこそとはいえ、結果として最悪のタイミングだったことは否めない。

 蛇足だが、人生最悪の失恋劇の現場に居合わせたのもこのクルマだった。まさに不運・不幸の連鎖ここに極まる、といったところだ。

 もちろんクルマに罪はない。このファミリア1500XGiに限って黒いボディーカラーが怨念めいた冥い色として記憶に焼き付いているのは、親不孝者の不実の結果に他ならないのだ。

 

過ぎたるは・・・

〈昭和の忘れもの〉モノ・コト編㉞

助六寿司(稲荷弁当・海苔巻き弁当)】

 ソメイヨシノの花芽が日毎に膨らんでいる。

 今年は晴れて花見の宴の規制が解除されるという。青空の下、家族や気の置けない仲間たちの笑顔の中心には、バラエティーに富んだ料理が並ぶことだろう。

 だが、自分の中では宴の食というと昔ながらの折り詰めの海苔巻きとお稲荷さん、所謂「助六寿司」が浮かんでしまう。

 歌舞伎が由来とされる助六寿司は、いわば江戸の粋と洒落の産物と言えるだろう。なので、家の食卓で「助六っ!」と見得を切られても正直ピンとこない。実際、当たり前のように「海苔巻き弁当」とか「稲荷弁当」と呼んでいた。定番でありながら、どちらが主役でも大勢に影響がないというちょっぴり切ない扱いだったのだ。だが、個人的には「お稲荷さん」の印象ばかりが強烈に残っている。実は、ある理由で稲荷寿司が今でも大の苦手なのである。

 以前、叔父が手広く商売をやっていたという話をしたが、飲食関連で寿司屋も経営していた。もちろん“廻らない”寿司屋である。

 店はそれなりに繁盛していたが、定期的な収入の一環として仕出しの注文も積極的に受けていた。冠婚葬祭はもちろん町内会の行事、さらに当時は団体旅行や会社の運動会などが頻繁に行われていて、行楽向けの仕出し料理や弁当の需要は最盛期だった。

 単純に考えれば、一定の売上が確保できるのは経営上好ましい。ただし弁当が20~30個ならば何の問題も無いが100個以上、時には500個という大量注文になると話が変わってくる。個人経営の規模では臨機応変に対応するのは簡単ではない。

 先の助六寿司タイプの弁当でも干瓢巻きが1000本、稲荷寿司は2000個必要だ。もちろん、総べて手作業である。且つ、食品安全上できるだけ提供時間までを短くする必要があったので、仕込みは深夜に行わざるを得なかった。

 熟練の職人が二人がかりでも、巻き寿司だけで4時間かかる。そこで当日は、助っ人として賄いの女性や家族が総動員される。その流れで、自身も中学時代にアルバイトとして度々駆り出された。

 職人ふたりは板場でひたすら海苔とシャリ、そして干瓢と格闘する。女性陣は仕込みの終えた油揚げに酢飯を手早く詰めていく。どちらも技術と根気の要る作業である。

 次に巻き終えた干瓢の細巻きを4等分に切り分ける。職人のリズミカルな包丁さばきは鮮やかで、見飽きることがない。一方、女性陣の奮闘により何枚もの大皿にお稲荷さんの山が築かれ、作業場には醤油とみりんで炊き上げた油揚げの匂いが満ちていた。

 ここからが出番だ。座敷いっぱいに置いたテーブルに経木の折箱を並べ、稲荷寿司と海苔巻きを詰めていく。巻き物は2本分、稲荷は4個。最後にバランとガリを添える。詰め終えたら蓋を乗せて包装するのだが、これがまた厄介だった。包装紙で丁寧に包んだ後、紙紐で十字結びをしなければならなかったからだ。今なら輪ゴムで済ませるところだが、店の拘りだったのだ。

 ここでも女性たちの見事な手際が光る。流れるような所作できっちりと包装され、次々と寿司折の山ができていく。そうしてようやく500個の弁当が包み終わる頃、窓の外はすっかり明るくなっているのだった。

 こんなことを繰り返すうちに、その油揚げの匂いが鼻につくようになった。初めのうちこそ醤油とみりんの匂いに食欲をくすぐられたが、毎回のことでさすがにその数に圧倒され、終いには匂いを嗅いだだけで胃が拒絶反応を示すようになってしまった。

 想像してほしい。1000本の海苔巻きを従え、2000個の稲荷寿司がピラミッドのごとく目の前に積み上がった様を。

『何事も過ぎたるは及ばざるが如し』??

 というわけで実物は見るのも嫌なくせに、なぜか季節が春めくと条件反射のように稲荷寿司の映像が脳裏に浮かんでしまうのだ。それは彩りの鮮やかな太巻きとペアでもなく、ましてやプラスチックのパックなどではない。経木の折箱に詰められた、由緒正しい「稲荷弁当」なのである。